2-9.交わる人生

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 王子ではあるが少女。  その師匠だというヤークト・ローダアヴァジーラ。彼女が一人の時、何故か彼が強く思い浮かぶ。  カシムはもう一度、その空の宮殿を見渡した。  ベッドしか置けないような小さな部屋。  他の宮殿からも遠い。  幼い子供一人で生きられるわけがない。  誰かがここで彼女を守っていたのだ。武術を教え、生きる術を教えた誰か。  そして彼女は今、その男との暮らしを幸せだったのだと告白した。 「なんでヤークト・ローダアヴァジーラを呼び戻さねえんだよ」  独り言のつもりがつい大き目の声になってしまい、カシムは慌てて手で口を覆う。  ジャーファルが明らかに動揺する。  もう埃ではごまかせないほど、遠くを見つめる瞳からぽろぽろと大粒の涙を零しだした。 「おい…っ」  ついいつもの癖で周囲を探るが、カルナックとアンチュの姿はない。  不意打ちはないと、冷えた肝を落ち着かせ、カシムはジャーファルの長い髪が揺れる背中をそっとさすった。その熱に中てられたのか、張り詰めていたものが切れたようにジャーファルはカシムにもたれかかり体を震わせだした。  面倒だと思いながらもカシムは、下を向いたままになってしまった上官をそっと抱き寄せる。 「…こういうことはカルナックでやれよ…」 「やだ…」  自分が何もしないとわかっているから、甘えるのだろう。  体はそれなりに大きいが、あの競技会を見ていたカシムはジャーファルが見た目よりずっと子供なこともわかっていた。  およそ一年前になる。  カルナックを軽く退けた王子は完全に子供だった。あれがこれということはまだ十一、二歳のはずだ。あの競技会の後、無理やり成人させられたのではないか。  カシムは見た目のやる気の無さとは裏腹に、常に周囲を観察し、思考を巡らせているタイプである。  人と争わないための処世術だった。  だからカルナックの不意打ちもだいたい躱せるし、ジャーファルが女ということにも気が付いていた。  軍が傾くのではないかというときにも、訓練教官の立ち位置を利用して行き場のない兵たちを屁理屈で先導して演習を強制した。  軍に査察が入ったときに都合がいいからだ。  その場にいなければ巻き込まれないし、万一何か聞かれても訓練していたと言えば変に疑われることはない。参加していた者にも口実を作ってやれる。  ふと、副官の立場になってしまった今、どんなごまかしも出来ないと気付く。  この少女、王子として生きる彼女を盤石な立場で居させること。それが出来なければすべてが崩れる。  最初は副官など自身の器でない負い目もあり、ヤークト・ローダアヴァジーラを呼び戻せばいいと考えた。  彼はカシムが見た中で、どうやっても敵わない、逃げられないと思わせた男だ。纏う雰囲気のようなものが異質過ぎた。  ただ今は、それをしてしまった時に、何か、悪い方向に向いてしまうのではないか。  ジャーファルが女性である限り、その男は師匠なんて関連だけでは括れない。今のこの動揺を見てもそれは疑いようがない。  親、もしくはそれ以上の存在。  ジャーファルは子供だ。しかし馬鹿ではない。  無理矢理背伸びをしている感はあるが、自分の代わりに動く人間を積極的に集めている印象だ。  一人の力で大きな組織を動かすことの限界をちゃんとわかっている。  以前の軍とはまるで別物になっているが、ジャーファルは将軍として、器があるかまではわからないにしろ、少なくとも害となる存在ではない。だから皆、王子という肩書もあるだろうが、ジャーファルを認め、従っているのだ。  やる気と能力のある者を取り立てる仕組みを宣言したことで、軍に残った者達は、今までにない活気を見せている。  若い王子が将軍になるということで軍から抜けた者も多いが、軍の縮小を考えていたジャーファルにとってはちょうどよかったとも聞いている。  今街には俄かに求人が増えている。軍を辞めても仕事があるのが大きいらしい。  おそらくは、あの、のほほんしながらも抜け目のない王太子が何かをしているのだろう。  王子達が成人して、急に国が変わったような気がしているのはカシムだけではない。  絶対的なはずだった大王の存在が霞んでいる。国民の意識が変わりつつある。それを感じる。  そんな中、あのヤークトという男を迎えることは危険な気がしてならない。 「…ヤークトを戻した方がいいの?」 「…俺に聞くなよ」  ようやく顔を上げたジャーファルの目には既に涙は引っ込んでいるようだが、濡れたままの頬が冷たそうでカシムは傷つけないようにそっと頬をぬぐう。 「俺はお前に従うよ。好きにすればいい」  感情もなく呟く。  カシムはそこに自分の主観はないという姿勢を見せたつもりだ。  ジャーファルはしばらくじっとカシムを見ていたが、噴出した。 「人の顔見て笑うな!」 「…見慣れないから…ごめん…」 「お前が髭を剃らせたんだろうが!」  そろそろ帰るかとカシムは立ち上がる。 「ほんと、ごめん!気は済んだからあとは好きにしていいよ」 「いや。お前が剃れって言ったし、なるべく気を付ける」  即座にされた返答、そして伸ばされた手に捉まる。年相応の笑顔を見せたカシムに、ジャーファルは、全く似ていないのにアクバルの笑顔を重ねていた。
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