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10 dizziness
電源を落としたラップトップを閉じ、眼鏡を外してテーブルに置く。
Tシャツにスウェットパンツ姿のウィリアムは、凝り固まった首筋に両手を当てると、やや力を込めて揉み解した。細首を反らし、ぐるりと回す。
息子の安眠を守り、また夫に隠れて仕事をするために消灯していた部屋が、ブラインド越しの朝陽で薄らと明るい。
部屋の片隅に設置している一人掛けのローテーブルセットから殆ど動くことなく一晩中キーボードを叩いていたウィリアムは、寝起きの息子がベッドの上でよくするように両腕を上げると、椅子に腰掛けたまま上半身を目いっぱい天井に向けて伸ばした。
昨昼。憂鬱な顔をしてラップサンドを齧り終えたウィリアムの元へ、母校でゲスト講師を務める件について大学の庶務課担当者から電話があった。
以前の案内では、ポスターやパンフレット作成の参考にするために、講義内容を簡潔にまとめたものとレジュメ案を六月中に提出するよう言われていた。それを都合により二週間以内に提出して欲しいと無理を言う。
平素であれば、契約内容と乖離した依頼に難色を示し期限の延長を求めるところだったが、気づけば苦笑しつつも承諾していた。
疲労により判断力が欠如していたこともあったが、ローストラムを焼いた時同様に現実逃避がしたかった。
現実逃避のため仕事に励むなど全く自分らしくない。自身の意識を他へ集中したからといって夫の追及を躱せる訳でもないと承知していても、今のウィリアムには渡りに船の連絡だった。
日中は育児や家事、通常業務をこなし、夜は早々にゲストルームへ籠ると遅くに帰宅した夫の出迎えもせずに資料の作成に打ち込んだ。
一時と五時に空腹で起きた以外は驚くほどよく眠っていた愛息に助けられて作業が捗り、既に準備を始めていたこともあって一晩で大学への提出資料を完成させた。当然のこと、自社の業務も抜かりなく片付けている。
背凭れに掛けていたカーディガンに袖を通したウィリアムは、無意味で不健康な高揚感に酔いながら温い炭酸水を飲み干した。
「ふんん……」
ベビーベッドから声がする。ちょうど良いタイミングで目覚めたらしい。
「ああ、起きたのかライア__」
息子の様子を見に行こうと腰を浮かせた直後、ウィリアムはソファの上に尻餅をついていた。意図せず元の体勢に戻っている自分に驚き、目を瞬かせる。長時間にわたるローテーブルでの作業は、流石に足腰への負担が大きかったかと苦笑した。
「ライアン、今行くよ」
ひじ掛けに手を置き、今度は慎重に立ち上がる。何事もないのを確認すると、愛しい声のする方へ歩み寄り真上から覗き込んだ。大きな瞳をぱちりと開いた愛息と目が合うと、一晩で溜まった疲労が一気に半減した。自然と笑みが浮かぶ。
「おはよう、ライアン。今日は本当にいい子でよく眠っていたね。おむつを替えてスキンケアをしたらリビングに行こうか……ダディはもう起きているかな……おはようを言わないとね」
ベビーベッドから息子を抱き上げたウィリアムは、マシュマロのような頬にわざとしつこくキスをして頬を擦り合わせた。朝の目覚めは上機嫌なことが多い我が子は、歯のない口を大きく開いて笑っている。
「お早うございます。ウィル、ライアン」
音量を下げて朝のニュース番組を見ていた夫が、こちらに気づき微笑んだ。ネイビーの半袖シャツにベージュのパンツというラフな出で立ちが、徹夜明けの目には眩しいほどに爽やかだ。
「お早うございます、レイ。昨日はすみませんでした、帰りを待たずに眠ってしまって」
実際は日付が変わる頃に帰宅したことを知っている。我ながらつまらない嘘を吐くものだと、笑顔の裏で酷く冷めた気分になった。
窓際のベビーベッドに息子を下ろす。昨夜の内に洗っておいたリング状のストラップを与えると、両手をぎこちなく持ち上げて受け取り、端についている大振りの輪を熱心にしゃぶり始めた。本来はおもちゃとベビーカーを繋ぐための物だが、握りやすいのか値の張るおもちゃより好んで遊ぶ。
「ウィル、私が朝食を作りますから座っていてください。玉子料理のリクエストはありますか?」
ソファから立ち上がって言う夫に対して、隣に腰を下ろしたウィリアムは静かに首を横に振る。明け方頃には確かに感じていた空腹が今は消えていた。
「寝起きで炭酸水を呷ったらお腹が張ってしまって……」
「そうですか。私も夕食が遅かったので、お腹を空かせてブランチにしましょう」
愛息の元へ向かわずに座り直した夫と肩を並べ、さして興味のないニュース番組を見る。夫がチャンネルを変えると、子供向け番組でマペットが数え歌を歌っていた。
昨日の出来事について、言及してくる気配がない。こちらが過敏になっているだけで、大して気に留めていないのだろうか……ウィリアムは警戒を解き始めた。
「ライアンも、あと数ヶ月したらこういう番組を楽しめるようになるんでしょうね……」
何と言うことはない夫の呟きに、ウィリアムは倦怠感と睡魔に抗いながら頷く。ブランチまで雑談に興じる体力は残っていない。適当な理由をつけて部屋に戻り仮眠を取ろうかと考え始めた。
「ウィル」
膝上に置いていた左手にそっと広い手を重ねられ、ウィリアムは却って落ち着いた目つきをして隣に座る夫の顔を見た。いつの間にか、昨日道端で別れた時と同じ表情をしてこちらを見ている。
「一日中考えていたのですが、『あんな動画を撮られたくせに』とは一体何の話ですか? 私の思い違いなら良いのですが、もしも何かトラブルに巻き込まれているのなら助けになりたいんです」
一気に覚醒した。あ……と、血色の悪い唇から息子よりも幼げな声が漏れる。肺に穴が開いたように苦しくなって、ダークブラウンの瞳から視線を逸らした。
「ひ、ひっ ふぎゃあああ」
「ああ……ミルクの時間なので、先に用意してきます」
次の授乳までは一時間弱あるが、ウィリアムは咄嗟にそう告げてキッチンへ向かった。大企業相手でも物怖じすることなく交渉のテーブルに着くことが出来るのが取り柄だというのに、こそこそと情けないことこの上ない。自分が酷く劣化したように感じて、泣きたいほど惨めな気分だった。
「……ライ、おいで。おや、もう泣き止んだね? 抱っこして欲しくてダディを呼んだのかな」
ウィリアムはリビングの父子をちらりと見つつ、広いワークトップの一角に置いた箱から液体ミルクを取り出した。ワークトップに手をつき密かに溜息を吐く。
起こった事を正直に打ち明け、事態を甘く見ていたと詫びる他ない。
ネットトラブルを夫に隠して一人で処理したのには幾つもの理由がある。
怒りに震える夫を見たくなかった。仕事や家事に忙殺される日々の中、愛する人とは心穏やかに過ごしたいと願った。色々な事に疲れていて、専門家に任せて幕引きを図れるのであればそれでいいとも考えた。
ただ、両手で数え切れないほど存在する理由の中で、自身を一等支配していたのは、夫に幻滅されたくないという感情だった。
義務ではない出産の疑似体験を自ら望んで受け、その姿を世の見世物にされるという滑稽な事態に、かつて彼が愛した男、燕秀は決して陥らなかった筈だと考えていた。詰まるところ自分は、燕秀に劣りたくないという幼稚なプライドに蝕まれていたのだった。
全くの無関係ではないにも拘わらずトラブルを隠し通そうとした事実は、夫に衝撃と心痛を与えるに違いない。幻滅に失望や軽蔑が加わる可能性もある。
彼の人は今頃、西の空の上で呆れているだろうか……
ビシャッ!
普段通り乳首を取り付ける前に本体を振ろうとして、無意識にキャップを開けてから容器を振っていた。信じられないミスに顔が引き攣る。
床に走ったミルクの飛沫を無言で見下ろしたウィリアムは、ややあってホルダーから大量のペーパータオルを巻き取ると床に膝をついた。
夜を徹してのデスクワークで痛めた体に鞭を打って、軽く一帯の拭き掃除をする。取り敢えずこんなものか、後は明日来るハウスキーパーに本格的な掃除を依頼しよう……膝をついて辺りを見回し、立ち上がった。
「あっ……」
激しい眩暈。まるで脳がテイスティングのためにグラス内で揺らされるワインにでもなったかのようだった。
初めて経験する事態にコントロールを失いふらつく体。咄嗟にワークトップを支えにしようとしたが叶わず、ウィリアムはキッチンの硬い床へ飛び込むように倒れ込んだ。
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