11 the ancients

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11 the ancients

「レイ、不安にさせてしまい申し訳なく思っていますが、そんなに心配しなくても私は平気です。立ち(くら)みなんて、大した理由もなく誰にだって起こるものでしょう……?」  広いベッドの上から発せられた声は弱弱しく、一層夫の不安を煽る。体調が(かんば)しくないことよりも、気落ちしたことで腹に力が入らなかった。  キッチンで倒れたウィリアムは数十秒後に意識を回復すると、酷く深刻な顔をした夫に横抱きにされ主寝室まで連れてこられた。  セルフマネジメントに失敗して卒倒するなど言語道断である。夫の在宅時に倒れた不運を嘆いた後で、夫の不在時であったら何も出来ない息子を危険に晒す事態になっていたかもしれないと思い直して眉を顰めた。 「私が同じように目の前で倒れたとして、そのような言葉を掛けますか?」  普段家庭では見せない険しい表情をした夫は、配偶者の訴えに耳を貸さず厳しい一言で口を塞いだ。  知人の医者にメディカルチェックアップの予約依頼をして来るので安静にしているようにと言い置いて、部屋を出ていこうとする。ウィリアムはその広い背に向かって縋るように言った。 「ライアンを連れてきてください。私が見ているから……」 「……いいから、休んでいてください。飲み物を取ってきます」 「いえ……要りません」  いつも雄弁に愛を語るダークブラウンが、こんなにも不機嫌に細められているのをウィリアムは初めて見た。床に強打した手や膝が脈打つように痛む。一人になった部屋で布団に埋もれながら、最悪の気分だと息を吐いた。 『むかしのおにいちゃんの名前は燕秀(エンシュウ)。いつもちゃんとしてて、かっこよくて、すごくいいにおいがしたの』  ああ、また始まった。  自室の回転椅子に腰掛けたウィリアムは、黒のバックパックからバインダーや借りてきた書籍などを取り出しながら、作り笑いで年の離れた末子の話を聞く。帰宅早々押し掛けられて一息つく暇もなかった。  ユニコーンのTシャツにレギンスパンツといういかにも幼児らしい恰好で一生懸命に言葉を操る姿は愛らしいが、内容には辟易(へきえき)している。 『こわい時もあったけど、いつもわたしたちのことを考えていろんなことをしてくれたし、お熱がでた時はいっぱいぎゅってしてくれた。とっても頭がよくておしごとも上手にできたから、いそがしいお父さんをいっぱい助けてあげてた。わたしが大きくなってバイバイしたからおうちがとおくなっちゃったけど、きれいな字でお手紙をいっぱいくれてね。ときどきはとおいのに会いにきてくれたの。ほんとうにほんとうに大好きだったんだよ…………どうして忘れてしまったの。兄上__』  小さく(かしこ)まってベッドに腰掛け、切々と昔語りをしていた幼児が、唐突に大人の姿になって呼び掛ける。心なしか、現在のセーラより年嵩(としかさ)に見えた。  更に奇妙なのはその出で立ちで、古代東アジアの宮廷で妃が着ていたような衣装を纏っている。セーラが演奏会で着る物よりずっと華麗で豪華な民族衣装……酷く美しかった。  ウィリアムはここに至って漸く、自分は夢を見ているのだと気がついた。  不甲斐無い配偶者のために動いている夫と、まとまった睡眠をとって元気が有り余っている息子を放って呑気に眠っている場合ではない……ウィリアムは覚醒しようとする。  全身が怠く両手が痛む。転倒した際に突いたのが原因の筈だが、先ほどまで感じていたものとは痛みの質や部位が異なっている気がした。  布団の下から腕を引き抜き様子を見る。手には包帯が巻かれており、どうした訳か指先が荒れていた。呆けた顔をして両手を見つめながら、いつの間に手当てされたのだろうと不思議に思う。 「体の調子は如何(いかが)ですか」  一人だと思っていたウィリアムは聞き慣れた声にどきりとして、仰向けのまま顔を横向けた。寝台の脇に置いた椅子に座り、こちらを心配そうに見下ろすのは夫の顔をした……  ああ、自分はまだ夢を見ているのだ。自身もTシャツにカーディガンではなく、伝統的なナイトガウンのようなものを着ていることに初めて気がついた。 「ああ、可愛そうなミスター・リウ……!」  出掛ける支度をしてソファで待機していたウィリアムは、玄関からソファまで一直線に駆け寄ってきたシャニースに力の限りハグされる。  出迎えに立った夫と戻ってくるまでに少々時間があったので、玄関で簡単に状況を聞いたのだろう。ウィリアムは相手の背中に手を回し優しく叩いた。 「急にお呼び立てしてすみません……他に仕事や用事はなかったですか」  夫の要請に応じて急遽(きゅうきょ)駆け付けたベビーシッターに、ウィリアムは申し訳なさそうな顔をする。ラグの上に両膝をついたシャニースは白く華奢な両手を握り締めて、子供に言い含めるように話した。 「病人が人の都合なんて気にしないのよ。ああ、たった今事情を聞いてどれだけショックだったか……!」 「病人だなんて……」  大袈裟なと苦笑しかけてウィリアムは口を閉じた。倒れた原因は不摂生やストレスだと自覚しており、夫が予約したメディカルチェックアップもオーバーだと感じていたが、心配をかけた相手に対して誠実な態度ではない。 「ウィル、そろそろ出ましょう。ミセス・マイルズ、本日はライアンを宜しく頼みます」 「ええ、もともと今日は何も用事のない日だったから、遅くなっても問題ありません。予定の時間を多少過ぎても、こっそり処理しておくから平気よ。もしも体力や時間に余裕があるのならデートでもして来るといいわ」  シャニースとその腕に抱かれた愛息に見送られ、ウィリアムは夫と共に家を発つ。出かける間際、靴を履いたウィリアムは振り向いて息子の頬にキスをした。添えた手と唇に伝わる無邪気な柔らかさに胸が詰まった。  
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