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12 drive
助手席のシートに深く体を預けたウィリアムは、首を右に向けて流れ始めた車窓の景色を眺め遣る。感情の読めない瞳で正面を見据えた夫は、普段のドライブと違い無言でステアリングを操っている。離婚協議の場に出向く車中のような空気。
大きな交差点で信号が赤に変わった。
「先ほど寝室で休んでいた時に見た夢に、前世の貴方が現れました」
ウィリアムは雨の予報でも教えるような調子でぽつりと言った。
「ドラマや映画の世界から抜け出してきたような恰好で、ベッドに横たわる私を心配そうに見下ろしていたんです」
「そうですか……」
ごく短い相槌を打った夫は、相変わらず正面を見たまま無表情で、ステアリングを握る指を僅かに動かした。
一見、乗車してから変わらない横顔に見えて、今は込み上げる感情を押し隠そうとしているようにウィリアムは感じた。
「たったそれだけの登場だったので、貴方やセーラが言う前世の記憶とやらが一時蘇ったのか、作り上げたイメージなのかは判りません……頭でも打って記憶を取り戻しそうなシチュエーションだったのに、そうはなりませんでしたね……何となく、私はこの先も思い出すことはない気がします」
信号が青に変わる。
ウィリアムは斜め前方を走る車のプレートに、愛息の誕生日が含まれているのを見つけて瞠目した。本来であれば家族三人で休日を楽しんでいる筈だった。今頃どうしているだろうかと思いを馳せる。
卑屈な物言いのつもりで随分と無情な言明をしたウィリアムに対し、それまで静かに耳を傾けていた夫が徐に口を開いた。
「…………貴方も私も、21世紀のアメリカに生きる西洋風の名を授けられた現代人です。千年以上昔にアジアの一王国で生きていた頃の記憶を有していようがいまいが、我々の生活や関係、私が貴方に向ける愛には少しの影響も与えません。前世の記憶を失っていない私が特殊なのであって、貴方が複雑な思いを抱く必要は一切ないのです。私は貴方が記憶を取り戻すことよりも、頭を打たずに済んだことの方が嬉しいですよ」
夫は静かにアクセルを踏みながら言う。その口調は本心か図りかねるほどに淡々としていたが、どこか自身にも言い聞かせているような響きがあった。
ウィリアムは新たに少しの罪悪感を抱きつつ目を閉じて眠りに落ち、駐車場で声を掛けられるまで目を覚まさなかった。
到着した総合病院では、受診可能な検査を全て受けさせられた。結果、当日分かる範囲で大きな異状はなく、失神の原因はウィリアムが自覚していた通り不摂生と過労、精神的なストレスであろうと診断される。
疲労回復の点滴を打たれ、鎮痛剤やビタミン剤、鉄欠乏性貧血改善の錠剤などの処方箋を受け取った。問診時、必要であればカウンセリングを受けるよう勧められ苦笑したが、少しも笑い事でないことは重々承知していた。
付き添いの夫は片時も側を離れなかったが、時折気遣う言葉をかける以外は押し黙っており、その沈黙はウィリアムにとって居心地の良いものではなかった。
夫の知人ドクターを介した特別な予約で配慮があったのか流れはスムーズだったが、全ての検査項目や処置、事務手続きを終え解放されたのは午後三時近くだった。
すっかり遅くなったブランチを求めて院内の食堂に入る。夫はチキンのクリームソース煮、ウィリアムはクラムチャウダーを注文して、空いている食堂内で向かい合って席に着いた。
久方振りの二人での外食が病院内の食堂というのは、ウィリアムにとって今一つ胸が躍らないものだった。しかし、さして期待せずに口にしたミルク仕立てのクラムチャウダーは、遭難から救助された後に振る舞われたような温かさで疲れた心身に沁みていく。
「……このチャウダー、とても美味しいです」
ウィリアムの素直な感想に、夫は食事の手を止めて顔を上げた。
「それはよかった……今度、作ってみましょうか。大鍋で煮て、ストックしておきましょう。器をブレッドボウルにするのもいいですね」
何気ない呟きを元に、漸く他愛無い会話をすることが出来た。チャウダーに浸した小さなクラッカーをスプーンで掬いながら、ウィリアムは小さく安堵する。
「……チャウダーもいいですが、久々にサーモンとディルクリームソースのスパゲティが食べたいです……貴方が作るパスタ料理は絶品なので、薬局に寄る必要がないくらい快復するような気がします」
朝からずっと何かに苛立っているようだった夫は、困ったように微笑した。
「材料を買って帰りましょう。今晩早速作ります」
「ありがとう。あの……我儘ついでに、もう一ついいですか?」
ウィリアムのリクエストにより、二人を乗せた車は病院から一番近いビーチへと向かう。空は快晴で絶好のドライブ日和だった。
先だってテレビ番組で見掛けてから、常に頭の片隅にあった海。家族が増える前は時折二人で出掛け幸せな時間を過ごしていたが、有名なビーチが幾つもある州に住みながら、近頃は暇がなく随分と足を向けていなかった。
失態続きですっかり面目を失った今、一つ二つ迷惑を重ねたところで評価は変わらないだろうと気が大きくなっていたのが幸いし、未だにどこか重い空気を纏っている夫に躊躇なく希望を伝えることが出来た。
「グローブボックスにサングラスが入っているので使ってください」
「ありがとうございます。お借りします」
ウィリアムは夫の気遣いに感謝して前方の収納を開き、整頓されたボックスの中からケースを取り出した。色素の薄い瞳に快晴のビーチは毒だ。
海岸線に沿って真っすぐに伸びる道を進む。夫越しに見える輝く海に、ウィリアムの心は健全な非日常へと誘われた。
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