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14 over tea Ⅰ
帰宅後。ウィリアムは夕食の支度を夫に任せ、仕事での外出を除いて初めて一日離れて過ごした愛息と思う存分触れ合った。
元々オフの予定だったが、この日は自戒のためにラップトップを開くことすらしなかった。丸一日仕事をシャットアウトするのは滅多にないことで、前回がいつであったか思い出せないほどである。
タオル一枚で何度でも大笑いする息子のいかにも赤ん坊らしい笑い声に、キッチンから漂うバターやガーリックの食欲をそそる香り。
至上の幸福を感じる一方で、あのまま無理な生活を続けていた場合、何ものにも代え難いこの時間を永遠に手放すことになっていた可能性があると思うと、背筋がぞっと寒くなった。
ウィリアムがリクエストしたサーモンとディルクリームソースのスパゲティの他にマッシュルームの香草焼き、レバーパテなどが並んだ華やかな食卓。
一人遊びに飽きた息子を交代であやしつつ、二人はレストランに引けを取らない食事を堪能した。
息子の寝かしつけを買って出た夫に甘え、先に寝支度を済ませたウィリアムは、シャワーを浴びに行った夫が戻ってくるタイミングでダージリンを淹れた。
色違いのパジャマを着た二人はダイニングテーブルに向かい合って着席し、日中購入したキャンディスティックを各々選んで紅茶に浸す。
「溶けやすいですね。少し揺らしただけでもう花弁が浮いています」
「春摘みのダージリンにして正解でしたね。水色が薄いから、私のビオラの紫も貴方の薔薇の赤も鮮やかに見えて美しい」
澄んだ黄金色の中でキャンディを揺らしていると、次第に赤い花弁や金箔が輝く液面を彩っていく。そのうち脆くなったキャンディの半分がプラスティックのか細いスティックから外れて、ことりとカップの底に沈んだ。
華奢なハンドルを品よく持ち口をつける。一日の疲れを癒す程よい甘みに、ウィリアムはほっと息を吐いた。沈んだ欠片が白磁の底を滑る。
「今日……波打ち際で戯れる親子を見かけて、夏が来たらライアンを海水浴に連れていきたいなと思ったんです。その頃にはもう少し体がしっかりしているでしょうから……秋になったらハロウィンの衣装で悩みたいし、アドベンチャーパークにも行きたい。家族でしたいことが山ほどあるんです。その為には妥協し甘んずることを覚えないといけませんね。私は完璧な人間ではないのだから……今朝倒れてようやく、最低な形で自身の限界を思い知らされました。自分自身に引導を渡されたような気分です……はは、まだこんなことを言っていてすみません」
ウィリアムは一旦落ち着こうと、すっかり甘くなったダージリンで喉を潤した。カップをソーサーに戻した時、膝上へ置いた左手が目に入った。絆創膏で隠れていた部分が内出血で変色している。ウィリアムは静かに言葉を続けた。
「自分の様子が妙だという自覚はあったんです……産後鬱に類する状態だったのかもしれません。ライアンの誕生を機に酷く意固地になってしまって……未婚で実子がいないにも拘わらず自ら卵子提供を申し出てくれた妹に、私達が一緒になることを認めてくれた両家に、貴方に、仕事で繋がりがある人間に、それ以外の私を知る全ての人間にも、これから私を知るかもしれない人間にも、理由は様々ですが、とにかく難儀している姿を見せたくなかった。それどころか、以前よりも強く在ろうと欲張って無理を重ねていました……自分の愚かしさに忸怩たる思いです」
正面に座る夫は黙って耳を傾けている。ウィリアムはなおも続けた。
「私は自分を過大評価していました。育児を軽く考えていた訳ではありませんが、今までのように全て卒なくこなせる自信があった。実際は一年どころか半年も持ちませんでしたね……今、肩の荷が下りたような心持ちがする一方で、先ほども語ったように打ちのめされてもいて……貴方の愛は不変だと承知していますが、それでも何というか、胸を張って貴方の隣に立てなくなったような……」
「ウィル」
テーブルの上に置いていた白い手が、正面から伸びた手にしっかりと握られた。顔を上げると、射竦められるほどの強い視線を向けられている。
「言葉を遮ってしまいすみません。ただ、程度や遣り様に問題はあったかもしれませんが、ライアンのケアや家事に勤しみながら事業の成長のために邁進した貴方は立派です。力を落とす必要はありません……私は、貴方以外と共に在ることはあり得ませんし、隣に立つ貴方に対して常に堂々たれとは思いませんが、顔を上げて笑っていて欲しいとは思います」
「ありがとう、レイ……それにしても、今日は本当に反省しました。倒れたのが貴方がいない時で症状が重く、ライが半日一人だったらと考えるとぞっとします」
「……ライアンのことは言う通りですが……私は、貴方を失うのではないかと、異変に気付いてから貴方が目を開くまでの間、本当に生きた心地がしませんでした。平然と紅茶を楽しんでいるように見えるでしょうけれど、今朝方のことを思い出すと今でも動悸がして目の前が真っ白になるんです……愛する人を突然亡くすというのは、本当に耐え難い痛苦ですから……」
実際に胸が張り裂けた経験のある者の声色だった。哀しみに満ちた声が二度は耐えられないと言ったように聞こえて、ウィリアムはふと、前世の私はこの人を置いて急に逝ったのだろうかと思った。現世に限った話ではあるが、夫の身内や知人に急逝した人間がいるとは聞いたことがない。
思い返せば、前世の記憶について快弁を振るっていた幼きセーラからも、生家で一等愛していたという兄について晩年の話を一度も聞いた覚えがない。
ここに至ってウィリアムは、恐らく前世の自分は天寿を全うしたのではなかったのだなと覚った。
暗い目をして俯く夫から視線を逸らし、手元のティーカップを覗く。底に沈んでいた飴の欠片から解き放たれた花弁が、舞うようにして液面へ浮上した。
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