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15 over tea Ⅱ
完全なる弁解で恥ずかしいのですが__夫はそう前置きした。
「貴方は若くして興した事業を常に発展させている、 聡慧で自立した成人です。配偶者とは言え、そんな貴方の決めた生活に口を挟むのは、貴方の自尊心を踏み躙る傲慢で僭越な行為だと…………」
「レイ?」
中途半端に言葉尻が途切れたのを不審に思い、ウィリアムは小首を傾げる。
「ああ、すみません。少し考え事を……」
そう言って漸く二口目の紅茶を口に含んだ夫の、普段は泰然としたダークブラウンの瞳がカップの液面で僅かに揺れた。
指先で弄んでいた白磁のハンドルから手を離すと、一度目を閉じ、何か意を決したようにウィリアムを見る。
「今朝方、病院へ向かう車内で、出掛ける前に見た夢の話をしてくれたでしょう? あの時、貴方の口から前世の話題が出たことに少し驚いたんです。きっと歯牙にも掛けていないと思っていましたから……そして、無意識に貴方の心を悩ますような振る舞いをしていたのではないかと、今日ずっと我が身を振り返っていました。あの時私は、前世の記憶は現世に生きる我々には無関係のものだと言い切ったけれど、実際は、私こそが前世の記憶に囚われているので……」
ウィリアムは黙って夫の告白に耳を傾けた。
息子は消灯したリビングで本格的な眠りについている。紅茶を飲み下す音すら響く静寂の中、ウィリアムは良質な独白劇を観ている気分だった。これまで避けてきた話題を扱っているせいか、どこかリアリティがない。
「先ほど、立派な企業家である貴方の決断を信じ、自主性に任せるべきだと考えたと言ったのは本心です。しかし、自身を追い込んだ貴方が倒れるまで傍観してしまった理由はそれだけではありません……遠い過去の記憶に囚われている私は、完璧ではないけれど古代よりは幾分自由に生きられるこの世界で、貴方の望むままの人生を歩ませてあげたいと常に考えて来ました。やつれた顔をして、ライアンと長く過ごせる今が最良だと言う貴方を見ても、違和感に蓋をして肯定することしか出来なかった。叶わなかった夢を語る彼の人や、代理出産プログラムが始まった時の幸せそうな貴方の笑顔がちらついて、駄目でした。これが最善なのだ、支えることに徹しようと自分に言い聞かせてしまったのです」
前世の記憶を持つ人間は何事に対してもアドバンテージを有していると思っていたが、良い点ばかりではないのだなと、酷く後悔を滲ませた夫の顔を見てウィリアムは考えを改めた。
「寝室を分けようと提案した時の私が余りに恐ろしい剣幕だったから、すっかり畏縮してしまったのも要因の一つなのではありませんか?」
いつも余裕の笑みを浮かべている端正な顔が、今は苦悩に沈んでいる。
息苦しい空気を軽くしようとして強ち冗談でもない軽口を叩くと、夫は苦々しい顔をしてそれは否定できませんと笑った。
「貴方の様子が尋常でないことには気づいていたのだから、抱えている仕事の量は適切なのか、シッターやハウスキーパーの利用回数は十分か、踏み込んで話し合うべきだった。そう、寝室を分けたことも全く失敗でした……私は夫として恥ずかしい位に務めを果たせていなかった。貴方は先ほど私の横で胸を張れなくなったと言いましたが、配偶者が昏倒するまで手を拱いている私こそ隣に立つに相応しくない」
「それ以上は止めてください。貴方は激務の中、最大限サポートしてくれたでしょう……今回の件は、完全に自分の限界を見誤った私の責任です。それに、こんなことを言ったら呆れるでしょうが、昼間終えられなかった仕事をゲストルームに持ち込んで処理することなども多々あったので……ライアンの夜泣きで貴方に迷惑を掛けるのを回避するだけでなく、そういった点でも寝室を分けることは私にとって好都合だったんです」
ウィリアムは最早隠す必要もないと、タスク管理に過怠があったことと日常的な不摂生を白状する。微苦笑とともに返ってきたのは意外な言葉だった。
「薄々気付いていましたよ。貴方は注意を払っていたつもりでしょうが、やはり気配は感じますし……ライの泣き声が聞こえなかった日でも、朝になると酷い隈を作って部屋から出て来るんですから……きっと昼間も休めていないのだろうなとも思っていました」
「それは、何というか、恥ずかしいですね……」
ウィリアムは口元に手をやって、この日一番の苦笑を浮かべた。隠し通せているつもりで疾うに知られていたとは、何とも間が抜けている。
「ライが一人寝出来るようになるまで、今後は親子三人同じ部屋で眠るか、せめて交代でどちらか一人がライと寝ることにしましょう。家庭に入っている訳ではない貴方が、夜中のライのケアを一手に引き受けるのはやはり公平でありません……ハウスキーパーやシッターの利用回数を増やすことも約束して欲しいんです。それと、せっかく得た在宅勤務期間なのだから、仕事量も可能な限りセーブしてください。でないと、社へ押し掛けて勝手に各所へ指示を出しますよ」
「うちのようなSMEには貴方を招くだけの力はありませんよ。一回の面談で月の売り上げが消し飛んでしまいます」
大手企業相手の経営コンサルタンティングを生業としている夫に、ウィリアムは肩を竦めて少々オーバーなことを言う。
「家族ですから、顧問料は特別価格に抑えますよ」
ウィリアムの軽口に、夫は白い歯を見せて冗談を返した。
「そうだ……レイ、シッターに関しては当面、現状維持で問題ないかもしれません……実はセーラから連絡があって、大学が夏季休暇に入るので、育児の手伝いに来てくれると言うんです。最初は突っぱねていたのですが、押し切られてしまって。ただ、今は受け入れてもいいかなと前向きに考えているんです……暫く滞在させても構わないでしょうか?」
「勿論です。家が賑やかになって、ライも嬉しいでしょう」
「ありがとうございます……あの子が滞在している間、私を嫉妬させるようなことはしないでくださいね」
以前、自分に隠れて旧交を温めていたせいで破局寸前に陥った件をわざと蒸し返した。夫は困ったように笑う。
「悋気を起こすのは私の方かもしれませんよ? そもそも、ずっと貴方しか見えていないのに、一体どうしたらそんな真似が出来るというのです」
「ふふ……その言葉、信じますよ」
色素の薄い柔らかなブラウンの目を細めていたウィリアムは、ある事を思い出してはたと表情を変えた。
「ああ、そう言えば、あの子には運命の相手がいるんでしたね。前世で伴侶だった男がいて、再会を夢見ているようなことを子供の頃に言っていたような覚えがあります……ああ、また話題が前世に及んでしまった」
ウィリアムは長い睫毛が縁取る目を伏せて、僅かに思案した。アンニュイな表情をしてダイニングテーブルの端に流し目を送る。
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