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16 over tea Ⅲ
ややあって視線を夫に戻した。
「……何だか、天から話せと言われているような気がするので、貴方の告白に乗じて私も一つ打ち明けましょう。どうか呆れずに聞いて欲しいのですが、私はずっと、前世の自分をロールモデルとして生きてきたのです。セーラに対しては彼に負けない良い兄になろうとし、貴方に対しては彼に劣らない良い伴侶であろうとしてきた……優秀で家族思いであったということ以外、得体の知れない千年以上も昔の自分を目標にし、負けまいと奮闘することがいかに愚かなことか勿論承知しています。それでも、心の片隅には常に彼の存在があって、何か苦しくなる度に思い出して奮起していました。ここ数ヶ月は特に頑なになっていて……」
ウィリアムはここで一息ついて、カップに口をつけた。
続けて言葉を発しようとして、細い頤へ僅かな緊張が走る。義父を初めてファーストネームで呼んだ時のささやかな緊張が蘇った。
「載、でしたか……?」
いかにも不慣れな感じのする語調で、かつて存在した一大国の名を口にして話を展開させる。初めて話題にした国名に、夫が息を呑んだのが伝わった。
「その国で燕秀が生を営んでいた頃と現代では平均寿命が異なるので、精神年齢も自ずと変わるでしょう。それに、当時の一生涯分以上の情報量を一日で得ているとも言われる現代に生きる私が、古代人のように悠然と振る舞うのは容易ではありません。そもそも、死んだ人間には勝てないと言います……そうやって分が悪い事を理屈では分かっていても、意識せざるを得なかった。だって、彼は単なる夫の元カレとは訳が違うでしょう……?」
最後はやや軽い言葉を交えて笑ったが、その表情は冴えなかった。
クライアントと差し向う姿を想像させる面持ちで話を傾聴した夫は、形の良い唇を結んで、ウィリアムのカップが置いてある辺りをじっと見つめた。
その表情は追憶に耽っているようで、瞳には在りし日の燕秀が映っているように見えた。
「……知徳を備えた一角の人物で、松朔英は生涯心から彼を愛していました。しかし、いくら優れていても所詮は人ですから……儘ならない事もあったし、悔恨も羨望もあった。夢を叶えようと身を粉にして働いて、我々が驚くような無茶もする。恐らく貴方が想像しているよりもずっと、人間味のある可愛らしい人でしたよ」
変に神格化して意識する必要はないという、自分に寄り添った発言だとは思いつつ、ウィリアムにとっては少々意外な人物評だった。
聖人でも崇めているかのようだったセーラの評を思い出す。年の離れた兄弟と恋仲にあった人間では見え方が異なるのだから、内容に乖離があって当然かと思い至った。
「そうですか……私は彼について詳しく聞くことを拒絶してきたから、彼の実像をよく知らなくて……」
セーラはある時を境に燕秀に関する話題を口にしなくなり、夫は当初から触れることをしなかった。
以前のウィリアムはそれを好都合だと感じていた。忙しい毎日に、煩わしさは少ない方がいい。一方で、狭量な自分のために口を閉ざした二人を思うと自身に嫌気が差しもして、前世にまつわる事柄への忌避感は増すばかりだった。
「こんなことを言うと貴方を悲しませるかもしれませんが、私は長らく燕秀に対して良い感情を持っていませんでした。彼を目標にしていながら、可笑しいでしょう? でもどちらも本当なんです……子供じみた理由ですが、幼いセーラに一時期暇さえあれば似たような話を延々と聞かされていて、自分の知らない自分の話をされるのは正直気味が悪かった。今いる自分を見られていないような気もしました。大抵の物事は努力次第でどうにかなるのに、前世の記憶を取り戻すことだけは出来なくて、面白くなかった……千年以上経った今でもこうして大事に思われていてるのに、こちらはすっかり忘失してしまっていて、私は貴方達ほど情が深くなかったのではないかと考えたこともあります……」
「貴方がそこまで大きな感情を抱いているとは知りませんでした。単純に下らないと一蹴しているのかと……」
夫の言葉にウィリアムは再び小さく肩を竦めた。
「話したことがなかったですから。こんなにも前世について話したのは初めてですね……貴方の不貞を疑った時ですら碌に話し合わなかったのに」
長年腹の底にあって近頃は特に煮詰めていた複雑な感情が、思いを吐露していくにつれ、昼間ビーチで見た海水のように澄んでいく気がする。
不摂生による昏倒がきっかけというのが少々情けないものの、いざ胸襟を開くと、酷く他愛もないことに拘泥し過剰に意識していたように感じた。
ウィリアムは目を伏せて溜息まじりに笑みを漏らす。
天井から吊り下げられたペンダントライトのもと煌く瞳で夫を見据えた。
「向き合うのにこれ以上の機会は訪れないと思うんです……レイ、随分と時間が掛かりましたが、聞かせて貰えませんか。貴方が私に代わって記憶に留めてくれていた、かつてこの世に在った燕秀という男の物語を」
夫は瞠目して言葉を失う。結んだ唇が歓喜に震えたように見えた。
やがて甘く整った顔に笑みを浮かべたが、こんなにもポーカーフェイスが下手な男だったかと驚くほどに、涙を堪えているのを隠せていなかった。
「そうですね……まず、二人が出会ったのは____いえ、すみません。松朔英が燕秀と交流を重ねた月日は十年に届かず、対面を果たせたのは両手で足りるほどの回数しかないのですが、それでもとても長くなると思うんです。如何でしょう、寝物語に毎日少しずつ語り聞かせていくというのは?」
漸く歩み寄りを見せた自分へ、長年温めていた思い出を共有したいと気が逸っている筈なのに、今を主寝室へ連れ戻す好機と捉えている。頭が回る男だとウィリアムは呆れた。
「でも、今からベビーベッドを動かすのは面倒ではないですか」
暫くヘルスケアアプリを使用するようにと渡されたスマートウォッチに目を落とせば、既に二十三時が近い。大人用と比べて軽いとはいえ、引っ越し作業を始めるには些か夜が更けている。
「それくらい何でもありませんが……そうですね、今日のところはゲストルームで家族三人仲良く眠りましょうか。万が一、下の階へ移動中の音が響いたら申し訳ないと思うからであって、狭いベッドで身を寄せ合って眠りたいという下心からの発言ではありませんよ」
夫はハンサムな詐欺師役を演じる役者のように、わざと狡い笑顔で言う。
ウィリアムは微苦笑して頷いた。
『Sequel~ウィリアム・リウの目眩く幸福な日々~』Fin
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