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epilogue
『二十分ほどで着くと思う。迎えが間に合わず済まない。また連絡する』
『私のことは気にせず、ゆっくり来てください。皆に会えるのが楽しみです』
自分を迎えに空港へ向かっている兄からのメッセージに返信したセーラは、アプリを閉じると壁紙に設定している甥の写真を見て相好を崩した。
生物学上の両親は姉と義兄であるのに、不思議と兄によく似ている。義兄の肩に頬を乗せ、緩み切った顔で眠っている様の可愛いこと……この発酵を終えたパン生地のような頬にもうじき触れられるのだと思うと、セーラの口元はますます締まりを失った。
着陸後、スムーズに荷物の受け取りを済ませゲートを出たセーラは、到着ロビーのベンチに腰掛けてセルフォンを操作していた。顔を上げてロビーを見渡す。
自身が前世、燕青藍として生涯を過ごした載国の領土は、アメリカでたとえるならば比較的面積の小さな州と同程度の広さだった。それでも、国内を西から東へ移動するのに、良馬を乗り替えて十日以上かかった記憶がある。
それが現代では、米国内を横断するのに半日も要しない。随分と便利な世になったものだと、セーラは改めて感慨に耽る。
父親に抱かれた幼女と目が合い、広い肩越しにバイバイと手を振られた。セーラは大きな上がり目を細めて手を振り返す。
飛行機の到着予定時刻と同じ頃に空港へ着くつもりでいた兄だが、道中ぐずり始めた息子のために車を停めミルクを与えた結果、予定より少々遅れてやって来るらしい。
バスやタクシーを使って帰ると、事前にもう少し強く主張すれば良かったか……申し訳なく思いつつ、数ヶ月ぶりの再会を前に笑みが抑えられない。
股の間に置いたスーツケースに覆い被さるように凭れかかった。顔を伏せて思う存分にやにやと笑う。黒髪を高い位置で団子にした頭が小さくバウンドした。
あと数十分で、生後間もない頃に会って以来の可愛い甥に会えるのが待ち切れない。家族の中で最愛の兄や親しくしている義兄に会えるのも、踊りだしたくなるほどに嬉しかった。
セーラは居ても立ってもいられずベンチから立ち上がる。右肩から前掛けにしたスリムなスリングバッグにセルフォンをしまい、足元に置いていた細長い楽器ケースを背負った。
取り敢えずロビーから離れようと、スーツケースを転がして歩き始める。細身のジーンズを穿いた脚は、大荷物を抱えているにも拘らず軽やかに床を蹴った。
手洗いに寄り売店を冷かしていると兄から電話があった。
散歩を兼ねて建物内まで迎えに来ると言う。こちらが駐車場へ向かうので必要ないと断りかけたものの、親子で出掛けることが楽しいのだろうと思うと酷く微笑ましくなって、セーラは素直に頷いていた。一階で待ち合わせる。
『白の五分袖Tシャツにジーンズです。前にはスリングバッグ、後ろに古琴を背負っていて、スーツケースの色は……ああ、いた! 兄さん!』
行き交う人々で適度に混雑している空港内。抱っこ紐を装着した兄の姿を遠くに認めると、藍色の瞳は輝きを増し、その声は喜びに弾んだ。
セルフォンをオフにして、兄と甥のもとへ小走りに駆け寄る。
押し掛けずにいられなかったほど一時期やつれていた兄は、多少肉付きが良くなっており顔色も悪くなかった。セーラは密かに安堵する。
「お迎えありがとうございます。今日から暫くお世話になります。ライアン、たくさん遊ぼうね」
後頭部を向けている甥の顔を横から覗き込む。大きなダークブラウンの瞳でこちらをじっと見つめたかと思うと、すぐに視線を父親の顔に向けてしまった。この人は誰と尋ねているかのような動きが愛らしく、セーラは白い指の背で柔らかな甥の頬を撫で笑った。
「昼食はとったのか?」
「それが、搭乗前あまりお腹が空いていなかったので、何も買って行かずに機内で提供されるスナックを摘まもうと思っていたのですが、眠ってしまって食べられずで……兄さんの顔を見てほっとしたせいか、今頃お腹が空いてきました」
「そうか。それなら、そこのカフェで軽食を__」
言葉が不自然に途切れた。突如として顔を強張らせた兄が俯くのを見て、セーラの表情も硬くなる。体調が良くなったように見えたのは勘違いだったかと不安になった。
「兄さん……?」
恐る恐る様子を窺うセーラに、ゆるりと顔を上げた兄が微苦笑して見せた。男性にしては華奢な手で、抱っこ紐の背面越しに小さな背中を擦って言う。
「ライアンが戻した」
広場のような通路の端に寄り、兄が背中のベルトを外す。
爽やかなサマーカーディガンの下に着たTシャツが、吐き戻したミルクでぐっしょりと濡れていた。当の本人はけろりとして泣かないので、体調不良で戻したのではないらしい。
セーラも手早くスリングバッグを外すと、スーツケースのハンドルに掛けた。甥を受け取る。
「かなり戻しましたね……これはもう着替えないと。私のシャツを貸すことができたら良かったのですが、生憎ジャストサイズのものしか持ってきていなくて……兄さんはスリムだけど流石に窮屈ですよね」
一枚くらいオーバーサイズのものを持って来れば良かったと後悔する。
離乳食が始まっていないので臭いはないとはいえ、吐かれた量が多いので不快感は相当なものだろうと思われた。奇跡的に殆ど汚れなかった甥を抱きながら、セーラは困り顔になる。
「家に帰るだけなら部分的に洗って乗り切るところだが、帰り道に幾つか寄りたい店があるんだ……土産物の服があれば買って着替えるか」
「ああ、それなら、二階の売店に売っていましたよ。エスカレーターを上がってすぐの店です。私はライアンとカフェで待っていますから、どうぞ行ってきてください」
まだ頼りない学生に我が子を預けて良いものか逡巡した様子の兄だったが、やがて決心がついたらしく頷いた。
「すまない……ではライアンを頼む。スーツケースは私が持って移動するよ。邪魔だろう」
「ありがとうございます。ではセルだけ持って行きます」
スーツケースに掛けたバッグから取り出してもらったセルフォンを、セーラはジーンズのポケットへねじ込んだ。
百ドル紙幣を一枚寄越して、息子には良い子でいるよう言葉をかけ、これから出張にでも向かうように去っていった兄の後ろ姿を見送る。挨拶もそこそこに別れることになるとは……セーラは苦笑しながら甥を見下ろした。
「ライアン、もう大丈夫? 車とお散歩で揺られて気持ち悪くなっちゃったのかな。ミルクを飲んだばかりだしね」
優しく背中を叩いていると、甥は薄い胸に顔を寄せて、小さく握った手を静かに吸い始めた。地肌が目立つ温かい頭に、セーラは愛情のこもったキスをする。
前世の記憶を取り戻すことを望み、幼かった頃は隙あらば古代の思い出話を押し付けた兄……記憶を持たない兄と良好な関係を保ちたいと、記憶を有している事実をひた隠しにしている姉から黙っているよう懇願されてからは、躍起になることを止めた。
結局、今も兄は前世の記憶を取り戻していないが、それでも自分が彼に向ける愛に変わりはない。
燕秀もウィリアムも、それぞれが掛け替えのない存在である。彼が愛する人と家庭を築き、多幸感に満ちた日々を過ごしているのなら、それ以上の幸いはない。
自分にもいつか兄のように運命の巡り合わせがあって、彼の人と再会を果たせるだろうか……
セーラは寂しげに目を伏せて甥の頭に頬を寄せた。
少しでも目立って前世で伴侶だった者の目に留まろうと、学業の傍ら琴を担いで国内外を回り舞台に上がっているが、未だに出会えていない。現代に転生していないのか、それとも兄のように記憶を失っているのだろうかと気が滅入る時がある。
腕の中で大人しくしていた甥が、大きな欠伸をした。空港までの車内で少し眠ったらしいが、眠り足りなかったのだろう。咥えていない方の手を握ってみると、手のひらが驚くほど温かい。
「眠くなってきたね? ……可愛いライライに、セーラが特別な子守歌を歌ってあげようか」
十代とは思えないほど慈しみ深い眼差しで囁いたセーラは、再び甥の頭に唇を寄せると、体の向きを変え、カフェを目指して歩き始めた。
小さな声で歌いながら顔を上げ、何気なく視線を遠くに遣る。
正面から歩いて来る人影を見て、セーラの心臓は驚愕に跳ねた。
巨大な空港内に十近くあるターミナルの中でも、比較的小さな国内線ターミナルであるこの場にはそぐわない人物だった。
オールバックにした艶のある黒髪に、鼻筋が通った精悍な顔立ち。均整の取れた体に仕立ての良いチャコールグレーのスーツを纏っている。三十代半ばと思われる年齢の割に風格があり、高貴ささえ漂わせていた。
今しがた恋しがったから、記憶の中の彼と似た背格好の人物を見間違えているのだろう……古代の子守歌をぽつぽつと口にしながら、セーラはエスカレーターを背に、広い通路の中央で固まって動けない。
相手が一歩近付くたびに確信に変わる。姿形は紛れもなく威煌龍その人だった。千と数百年もの昔、現在と同じ年頃に出会い、側妃として添い遂げた……
居合わせた人々の注目を集める高身長で見目の良いアジア系男性は、周囲の視線をものともせずに、コツコツと無感動にレザーソールを鳴らしてこちらへやって来る。
残り三十フィート、十五フィート、十フィート……いつしか子守歌は止んでいた。セーラは緊張と興奮で乾いた喉で、懐かしい呼び名を口にする。
「陛下」
『Sequel~ウィリアム・リウの目眩く幸福な日々~epilogue』Fin
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