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2 Ryan Liu
朝。夫を送り出したウィリアムは、最低限の家事を済ませてハウスキーパーを迎えると、数ヶ月にわたり夜を過ごしているゲストルームへと戻った。清掃の邪魔にならないよう、来訪日の午前中は親子で部屋に籠ることにしている。
部屋の中央に設えた、主寝室より一回り小さな寝台。その脇にベビーベッドが据え置かれた光景は、ウィリアムにとって最早当たり前のものとなっていた。
添い寝が出来るよう、マットレスの高さを合わせてサイドの柵を取り払った多機能なベビーベッドは、夜間に子の世話を焼くのに重宝している。
そっと近づき見下ろすと、パステルグリーンのカバーオールを着た息子が、カラフルな球体のおもちゃを掴んだまま大人しく寝転がっていた。
手早くカメラアプリを起動し、セルフォンを向ける。胸元で存在感を示している、綿菓子のような犬のアップリケに瓜二つな顔が撮れた。ウィリアムは小さく笑うと画像を夫へ送信する。
「ダディがたくさん遊んでくれたから少し疲れたかな? 今朝もライは早起きだったから、そろそろ眠いね。ひと眠りしたらダダとも遊ぼうか」
珍しく独りでに眠りかけている息子に囁いたウィリアムは、腹まで毛布を掛けてやると自身もベッドに上り横になった。小さな体に腕を伸ばし、足の付け根辺りを一定のリズムで叩き始める。
平穏が支配する部屋の中、とろとろと薄い瞼が下りかけている愛息の横顔。不意に涙が込み上げたのを、ウィリアムは苦笑して堪えた。
このまま少しの後ろめたさも制限もなく、尊い命と並んで泥のように眠ることが許されたらどれだけいいか……自分が今より責任を伴わない立場の人間であったならば、仕事を手放し家庭に入ることも出来たのだろうか。その時、夫はどう反応した? 恐らく笑顔で受け入れて__
そして、往時の伴侶との違いに寂しさを覚え、密かに落胆したのだろうか。
空しい怠け心や妄想を追い払ったウィリアムは、愛息が眠りに落ちたのを確認すると静かにベッドを去った。部屋の片隅にある一人掛けのソファへ移動し、ローテーブルの上に置いていたラップトップを立ち上げる。
昨日行われた各チームの週例会議の議事録全てに目を通し、今朝送られてきたメールのうち必要なものに返信をした。近々リーガルチェックのため来社予定の顧問弁護士へ尋ねたい事柄があったのを整理し、その他幾つかの緊急性が高い仕事が済むと、ニュースサイトを開いて経済や業界関連のニュースに目を走らせる。気になる記事を大方閲覧したところで、画面の隅に載っていた普段は殆ど読むことがないゴシップ記事の一覧が目に留まった。
『乳児放置でパーティー三昧! P・ヒューストン炎上』
ウィリアムはそれまで無表情だった顔を顰めつつ見出しをクリックした。昨夏に代理出産で第一子を得たセレブタレントが、露出度の高い派手な衣装で友人主催のパーティーに連日連夜出席し、子育てはどうした、所詮子供も高級アクセサリーの一つかと非難されているらしい。
彼女にとってはパーティーも仕事のうちで、家庭内の実情は本人達にしか知り得ないことだろうと一応の理解を示しながらも、代理出産のイメージダウンに一役買うような真似をしてくれるなと、ウィリアムは疎まずにいられなかった。
我が子の誕生前から今日まで、以前より物事に対してセンシティブになっている自覚がある。一昔前の自分であれば歯牙にも掛けなかったことに心を乱されていた。
アクセサリーという単語は、ウィリアムの脳裏にとある席での会話を呼び起こす。
「__聞いたか。ウィルの奴、数年前にゲイマリッジして、もうじきハズバンドとの間に子供が生まれるそうじゃないか」
大学の周年記念に合わせて、昨秋やや前倒しで開催された同窓会。慣例に従い卒業後十年の節目に初めて集う会とあって、多くの同輩が出席し親睦を深めた。
歓談の最中、電話対応のために会場を出たウィリアムは、通り掛かったロビーの片隅で、顔見知り程度の同輩達が自身の名を口にしているのを耳にした。
足を止め、ソファから視界に入らない柱の陰に身を潜めて聞き耳を立てる。酒が回って声量が抑えられていないので、さして苦労することなく内容を聞き取ることが出来た。
先の男の話に場が色めき立つ。
「そりゃすごい。昔から平凡とは無縁の存在だったもんな。秀才で独特の魅力があって。俺は驚かないよ」
「よく驚かずにいられるわね。知的な美人を選ぶものとばかり思ってたから衝撃よ。きっと彼に釣り合う素敵な人なんでしょうね……お相手の顔が見てみたい。確かキムって彼と親しかったわよね? 彼がSNSをやっているか知ってるかしら」
「……ゲイマリッジで子供って、代理母に依頼してってことだよな。ああいうのって、普通よりずっと金がかかるんだろ? エグゼクティブにとっては端金かもしれないが……」
どこか棘のある物言いだった。ウィリアムはセルフォンを弄る振りをしながら、風向きが変わったのを感じる。
「余計なお世話だろうけど……愛情不足の子にならないか心配。彼、会社を経営していると聞いたわ。乳児に構う時間なんてないんじゃない?」
「子供をアクセサリー感覚で持つセレブっているからな。この前ネットニュースで見たんだが、子育ては常駐のシッターに丸投げでミルクすらろくにあげたことがないとかさ。結局ああいうのって金持ちの道楽なんだろう」
「自分は差別主義者ではないけど、男性に母性が担えるのかとは疑問に思うよ。どうしたって埋められない部分はあるだろう。それが子供に何かしらの影響を与えるんじゃないかと危惧するね」
友人達と近況を教え合ったのを、側で聞いていた者がいたのだろうか。同性婚については平素から隠しておらず、話の種にされることは構わないが、子の養育に関しては随分と勝手を言ってくれると鼻を鳴らした。
自分はどこぞのセレブタレントとは違う。我が子と過ごす時間を第一に考えており、両親学級へ通って新生児ケアについて学び始めた。疑似出産体験も済ませている。
週数相当の胎児の情報を閲覧できるアプリを日々チェックしては、イラストの胎児から届くメッセージに胸を高鳴らせている。十カラットのダイヤでさえ、自分をこんな風に昂らせることは出来ない。少なくとも自分にとっては性差など些末事だと断言できた。
しかし、赤の他人が口にした懸念は、ウィリアムの心にさざ波を立てた。夫も同様に危惧の念を抱いているのではないか……静かに憂慮する。
しかし、精一杯の努力をして払拭していくしか己に出来ることはないのだと考え、黙ってその場を後にした。
順風満帆な人生だった。
アメリカに生まれ育ち二十歳で大学を卒業後、実業家である親のバックアップや縁に恵まれて、モダンオリエンタルデザインが売りの高級インテリア販売事業を興した。
量販店で低価格の商品を購入するのが当たり前の現代であっても、その繊細で優美な仕事は上流階級の心を捉えており、テレビで目にするようなセレブリティから注文を受けることも珍しくはなかった。業績は良好そのもので、二十代半ばで出会った夫からは一年の交際期間を経てプロポーズを受ける。
夫であるレイモンド・リウと出会う以前、ウィリアムは自身が我が子を抱く姿など想像したこともなかった。それどころか色恋に一切の興味がなく、アセクシュアルである可能性が頭を過っていたほどである。パートナーを持つ意思すら希薄であったのが、リウ氏と出会い、結ばれ、同棲を始めた頃には、子のいる生活を思い描くようになっていた。
結婚から一年後。代理出産プロジェクト参加の意思を告げると、夫は心から喜び賛同した。あの時夫が見せた笑顔を、自分は生涯忘れることがないだろうとウィリアムは確信している。
精子は夫の物を使用し、卵子については誰より結婚を祝福し提供にも積極的だった三つ年下の妹に協力を仰ぐことに決めた。エージェンシーに代理母探しを依頼したところ比較的速やかに候補が挙げられ、申し分ない相手とのマッチングが成立する。
過保護の自覚はあったが、子の誕生が実現に近付くにつれ、ウィリアムの中で生後一年は傍で成長を見守りたいという希望が譲れないものとなっていく。これまで己が重ねてきた自社への献身は、この我儘を許されるに値すると考えた。
一年もの間、完全ではないとはいえ社長室を空けることに関して、ウィリアムの心に少しの罪悪感も湧かなかった訳ではない。しかし、エコー写真が段々ヒトらしくなっていくのを見るにつけ、正しい決断だったと思えた。許されることなら、何もかも投げ捨ててずっと傍にいたいほどに愛しかった。
勿論、それは現実的な話ではない。好調な事業を投げ出すには余りにも自分は若く、まして世界情勢が不安定で国内経済も先行き不透明な中、手塩にかけて育ててきた自社を放棄するのは正気の沙汰ではないと承知している。
高給取りの夫が明日失職する可能性もゼロではなく、自身の我儘で従業員たちを路頭に迷わせるのは望むところでない。
何より、この先も夫の自慢でありたかった。
代理母との契約が成立した時点で、自社の上層部や秘書らには特別な業務形態への変更について了解を得た。そして代理母が安定期に入った頃、会議の席で改めて下部の社員らへ自身の意向を告げた。
「__そこで、年明けからの一年間、週に一度出社する他は基本的に在宅での勤務を予定している。皆の負担が増えないよう可能な限り努力するが、多少の不便は容赦して欲しい。質問や意見があれば遠慮なく発言してくれ」
唐突な宣言に返ってきたのは、強張った笑顔で告げられる祝福の言葉たちだった。皆、不承不承と顔に書いてある。上層部は近しい人間が多いので理解を得るのも早かったが、こちらはそう簡単にはいかなかった。
「お子様の誕生、楽しみですね。しかし、随分思い切ったことをなさるなというのが本音です。自身が出産した女性社員ですらキャリアの為にひと月で復帰した例もありますから」
「不安がないと言えば嘘になります。勿論のことお支えする覚悟ですが、今後新店舗のオープンも控えていますし……」
「実際に試してみるのも手でしょう。ひと月も経てば不可能かどうか分ることです」
日頃良好な関係を築けているからといって、手放しで賛同されるとは端から考えていなかった。自分が社員の立場でも、正気を疑ったことだろうと思う。
ウィリアムはこれらの反応に傷つく程に繊細ではなかった。寧ろ反骨心のようなものが芽生え育つのを感じた。
恵まれた人生を歩んでいるとはいえ、これまでも人種や年齢、男性を配偶者に選んだこと等から辛酸を嘗めたことがなかった訳ではない。不安や不満の声をかき消すべく奮起すればいいと思った。
スケジュール調整に携わる社員には申し訳ないが、方々に掛ける迷惑は最小限に抑える。元より業績を落とすことは考えていなかったものの、維持するどころか伸ばしてやろうと考えた。
従業員数五十名程のSMEで、誰より営業に強いのが他ならぬ自身である。人脈を活かして大型顧客と新規契約を取り交わし、新たな工房と業務提携を締結するなど、これまで以上に積極的に動いた。
心身共に健康的な女性の胎を借りて臨月まで順調に育った息子は、今年の初め、母子共に異常なく誕生した。
二六〇〇グラムとやや小さく生まれたものの、満四ヶ月が近づく今、体重は当初の二・五倍に増えている。
夫に相談してから実に二年の歳月を経て生まれた愛息にはライアンと名付けた。今のところ、全体的な顔の印象は自身の家系寄りで、髪や瞳の黒いところなどは夫に似ている。
時には泣いて手が付けられないこともあるが、基本的には大人しく、愛らしい子だった。おむつ替えの最中に粗相を繰り返されて新品を何枚無駄にしても、吐き戻しなどのため午前のうちに四度着替えさせる羽目になっても、全て笑って許してしまうほどに愛しい。
学生向けのセミナーで紹介されるセルフマネジメントの悪い見本のような暮らしにはなったものの、社員を不安がらせた仕事面は好調そのもので、リモートワークと少々の出社でも十二分に責務を果たしている。望んだ生活のため多少の自己犠牲はやむを得ない。今が最善だと思えた。
「……ライアン、いい子で寝ているね。ダダも一緒に寝ていいかな」
ベビーベッドの傍へ立ったウィリアムは、健やかな寝顔に向かって優しく囁いた。すると、それまで熟睡していたのが手足の曲げ伸ばしを繰り返したかと思うと、色白な顔を赤くして不穏な声を漏らし始める。
掛け時計を見上げると授乳の時間が近い。
「お掃除が終わった頃だから、リビングに移動しようかライアン。ミルクを飲んだらおむつを見てみよう」
我が子を抱き上げたウィリアムは、温かな頭頂部に唇を寄せるとゲストルームを後にした。
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