32人が本棚に入れています
本棚に追加
3 go out
五月初頭、某日朝。
数種類のサプリメントと共に市販の鎮痛剤を飲み下す。
数ヶ月にわたり断続的に襲われている頭の痛み。耐性が出来たのか症状の悪化によるものか、以前の沈痛剤では効果が薄れてきたように感じ、先頃、より高価で効き目の強いものに変えた。
ウィリアムは慣れた手つきで薬の空箱を開くと、裏返しにしたそれを小さく折り畳みゴミ箱へ落とす。穴の開いたアルミシートは、コーヒーメーカーの空きカプセルに詰めて捨てた。
家庭ゴミは週に三日来訪があるハウスキーパーが都度回収し、同じフロアにあるステーションへ運ぶ契約になっている。これだけ不精を許されておきながら音を上げているようでは罰が当たると、ウィリアムは皮肉な笑みを浮かべた。
大粒のサプリメントとそれを流し込む水で不快な満腹感を得たウィリアムは、それ以外何も口にすることなくキッチンを離れる。元来大食家ではなかったが、育児と仕事に追われる現在の生活を始めてからというもの、自分の為にはトースト一枚焼くのも面倒で、朝昼と碌に食べないことも珍しくなかった。
定番の童謡が流れるリビングに敷かれたラグの上。広げたベビージムに仰向けで寝転ぶ我が子が、目の前に吊るされたカラフルなおもちゃの一つを凝視している。
未だ天に向かって腕を伸ばすことが出来ないため、床に近い場所でもぞもぞと手足を動かしているのが愛らしい。自然と頬が緩んだ。
「ライアン、今日は病院でお注射をしてもらう日だ。終わったらベビーカーでお散歩しよう。少し寒いから、グランマが送ってくれた帽子を被って行こうか」
足元に両膝をついたウィリアムは、日増しに肉付きがよくなっていく足首を手に取ると、左右交互に上げ下げして散歩の動きを再現する。
「えあぅあう」
「ふ……上手にお返事出来てえらいな。さぁ、ダダのところへおいで。ベストを着たら出かけよう」
寝かしつけで酷使した腰に疼痛を覚えつつ息子を抱いて立ち上がると、ウィリアムはベストを敷いておいた窓辺のベビーベッドへ移動した。
『apple』
待合室の天井付近に備え付けられたテレビモニター。そこに映っているのは、艶やかに完熟した林檎の写真と下部に添えられたappleの文字だった。
院内案内や病気予防の啓発ムービーが流れるモニターで、何故唐突に林檎が紹介されるのだろう……そう不思議に思うのを、ウィリアムは既に三度繰り返していた。
画面を視界に入れてはいても、鈍い頭で考え事をして視覚情報を得るのが疎かになっている。その上、膝上に座らせている我が子を構っているのだから、いつまで経っても疑問が解決されることはなかった。
五分程度の動画が繰り返し流れているだけだった。気になるのなら集中していれば良いものを、馬鹿のように不思議がっているなとウィリアムは呆れる。
「ライアン・リウさん、診察室へ」
「はい」
動画が更に一順する頃、息子の名が呼ばれた。ウィリアムは立ち上がり様に今一度モニターを見上げる。啓発ムービーが終わり、画面いっぱいに広がる赤。接写された写真がズームアウトして、見慣れた『apple』になった。そして始まる院内案内。
動画終わりに差し込まれた、接写画像から正体を当てる単純なクイズだったらしい。自分はこんなことが気になっていたのかと拍子抜けした。
「次回の接種兼乳児健診は二ヶ月後ですので、帰りに窓口で日時を決めていかれるか、後日お電話か当院のウェブサイトから予約をお願いします。接種は月・水・金のいずれかの日で受け付けていますので。今回もご覧になったと思いますが、以前お渡しした予防接種に関する冊子に記載のURLからワクチン情報を確認しておいてくださいね。最後に、何か質問はありますか」
「いいえ、有難うございました。ドクター・ジョーンズ」
診察台の上で拳を舐めている息子に服を着せつつ礼を言う。足のスナップボタンを留めようとして、太腿の注射痕に貼られたバンドエイドのスマイルマークと目が合った。
「ライアンは少し体調を崩しやすく来院数が多いので心配されているかもしれませんが、発育は順調ですよ。よくケアされていますね」
「それは良かった……先生には本当に感謝しています。それでは二ヶ月後に」
息子を抱き上げたウィリアムは、かかりつけの女医に改めて謝意を示し退室した。
天井、床、左右の壁と全て異なる色で塗られた廊下を進む。
「お注射を打たれても泣かなかったね。ライは本当にいい子だ。かわいいバンドエイドを貼ってもらえて嬉しいね」
抱かれている間は基本的に大人しい愛息は、肩に顔を埋めてカーディガンを舐めている。健診結果と医師の言葉に肩の荷が下りたウィリアムは、窓口で用事を済ませると足取り軽く病院を後にした。
「そろそろお散歩に行こうか。お友達にライのミルクを分けてあげようね」
病院近くのパーキングに戻ったウィリアムは、車内で授乳後、積んでいたハイシートのベビーカーに息子を乗せて再び車を離れた。
左右のクッションに挟まれてやや四角くなった愛くるしい真顔を、抜かりなく写真に収める。家を出る時にチャイルドシートでも似た図を撮っているが、ウィリアムにとっては別物だった。
十分ほどベビーカーを押して到着した教会のエントランス。
広いコンクリートの一角が、ビニールテープで三つに区切られている。各スペースにはそれぞれ食べ物、服、その他の札が立ち、既に多くの寄付品が置かれていた。季節外れのハリケーンの影響を受けて近隣の町で洪水があったことも手伝って、普段より多くの善意が寄せられている様子だった。
愛息に使う機会がなく余らせていた試供品や贈り物を、ウィリアムはベビーカーに積めるだけ積み、また両肩に提げられるだけ提げてやって来た。
穏やかな老夫婦に話しかけられている我が子を見守りながら、所定の場所へ積荷を置いていく。冷たく吹く風が心地良かった。
「ハイ、サークルへの参加をご希望の方?」
痛めた腰を擦りつつ寄付品を置き終えたウィリアムが、家路に就こうとベビーカーのハンドルに手を置いた時、開放されている扉の向こうから明るく声をかけられた。
赤毛のポニーテールが目立つ溌剌とした女性だった。腰に着けたシートには、十ヶ月程に見える女児がこちらに背を向けて座っている。
「いいえ、今日はベビー用品の寄付に来ました」
「それは良い行いだわ。あらぁ、お目目の大きな可愛い子……紙おむつのパッケージに応募すべきよ。お耳がついた帽子がキュートね、何ヶ月?」
「ありがとうございます。ちょうど四ヶ月になりました。お嬢さんも、とても素敵なワンピースを着ていますね。ヘアバンドもお洒落だ」
肩のフリルが目を引くクリームイエローのワンピースと、同系色のコサージュがついたヘアバンド。人形のような愛らしさに自然と笑みを浮かべて言うと、女性は伯母が作ってくれたのと嬉しそうに笑った。
幼子を持つ親とプライベートで話す機会がないウィリアムには、新鮮で気持ちが和らぐ交流だった。
「私達、二週間に一度育児サークルで集まっているんです。この教会の多目的ルームを借りてね。専門のアドバイザーが来るわけじゃなくて、近況を報告し合ったり、家族や職場の愚痴を言って盛り上がったりとカジュアルで楽しい集まりなの。勿論、誰かが抱えた悩みについて、皆で真剣にアドバイスすることもあるわ。割合は女性八に対して男性が二ってとこかしら。ペーパーを持ってくるからちょっと待ってて!」
バタバタと建物の奥へ消えた女性が、あんなに慌てて子供は平気だろうかと心配しているうちに戻ってきた。ウィリアムは手渡されたペーパーに目を落とす。
モノクロの紙面には五月、六月の開催日時と今しがた聞いた説明を書き起こしたような文面、無料サイトから借用したと思しきお茶会のイラストが載っていた。素人感溢れるペーパーが微笑ましい。
「予約なしで気軽に参加できるので良かったらどうぞ」
爽やかな陽射しの下、ウィリアムは試しに三十分ほど参加してみようかと考えた。育児について情報交換が出来るのはありがたく、良い気晴らしになりそうだ。全く知らない相手であれば、気安く話せることもあるだろう。
「あ」
『ピリリリリ__』
誘いに乗ろうと口を開いた瞬間、無情にもセルフォンの着信音がウィリアムを現実へと引き戻す。ベビーカーのハンドルに付けている収納バッグからセルを取り出すと、画面には秘書の名前が表示されていた。
この生活を始めてから、定時連絡以外に掛けてくることは殆どなかった。余程の急用だろうと推測し、どの様な内容でも動じないよう心構えをする。
「ご親切にありがとう。家に帰って読みますね」
美しく四つ折りにしたペーパーをテーパードパンツのポケットに滑り込ませたウィリアムは、息子に手を振る女性に微笑むと、セルフォンを片手に軽くなったベビーカーを押し始める。
「遅くなってすまない」
『お忙しい所申し訳ありません。至急お耳に入れておいた方が良いかと思いまして、御連絡差し上げました。実は__』
教会近くの街路樹の傍で通話を終えたウィリアムは、セルフォンをバッグに戻すとハンドルに両手を置いて力なく項垂れた。しかし、すぐに気を取り直して、別の相手へ電話をかけるべくアドレス帳をタップする。
「ぁぅぅ……えうっ……んぎゃあああ」
今まで静かにしていた息子が突然ぐずり始めた。ミルクは飲んだばかり、眠気のせいで不機嫌になっているのだろうかと思いつつ、正面に回って抱き上げる。手のひらに感じる湿った感触。
「ああ……おしっこが漏れて気持ち悪かったんだね。車に戻ったらおむつも服も替えてあげよう。シートも駄目か……」
濡れた座面を触って、ウィリアムはとうとう溜息を吐く。不幸は単独では来ないという諺が脳裏を過ぎった。
最初のコメントを投稿しよう!