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7 take-out food
ぜんぶわすれちゃったみたいだから、思い出せるようにわたしがいっぱいお話してあげる。
おにいちゃんのむかしの名前は__
「ウィル……」
耳元で優しく名を囁かれ、ウィリアムは深い眠りから覚醒した。白い瞼をゆっくりと開きながら俯いていた顔を上げると、目の前にはスーツ姿が魅力的な夫の姿があった。ソファに沈んだ体が重い。一瞬で状況を把握し、気怠げに口を開く。
「……今、何時ですか」
「二十二時半です」
眠気に抗って大暴れした我が子を寝かしつけるうちに転寝してしまったらしい。膝の上で横抱きにした愛しい重みと共に一時間少々寝入っていた。
押し潰してはいないか、腕の中で寝息を立てる愛息を見下ろす。長い睫毛を伏せたその表情は安らかで、居心地は悪くなかったと見える。
一時間前までの苦労が嘘のように熟睡している息子を、差し伸べられた手へ慎重に預けた。静かな足運びで窓際のベビーベッドへ向かう夫の後ろ姿を眺めつつ、ウィリアムは前傾姿勢で凝り固まった体を解す。
「すみません、見苦しい姿をお見せして……」
息子を置いて戻った夫を、ウィリアムは恐縮して迎える。暖色のライトに照らされた夫は穏やかに微笑んで首を横に振った。帰宅にも気づかず眠りこけていたというのに、心の広いことだと感心する。
「宗教画のようでしたよ。体が辛そうだったので起こしてしまいました。すみません」
「こんな聖母子像が在りますか。部屋着に丸眼鏡で……」
おまけにスウェットシャツの左肩にはミルクを吐かれた跡がある。苦笑したウィリアムはさり気なく眼鏡を外してソファから立ち上がった。すぐに降ってくるキスを細い顎を上げて受け止める。
「その眼鏡、私は好きですよ。普段の貴方が纏う、白のカラーリリーのように凛とした空気や早朝の教会のような静謐さも愛していますが、これはこれで柔らかな雰囲気が際立って愛らしい。色々な顔を見られるのは配偶者の役得ですね」
そういった甘い文句が気恥ずかしいから掛けないのだとは言わなかった。
自身が贈ったメタルフレームの丸眼鏡を、夫は甚く気に入っている。愛らしいなどと自分に似合わない言葉を囁かれるのが面映ゆいウィリアムは、掛けた姿を殆ど見せていない。
夫の前でも出来る限りスマートでいたいという小さなプライド。それすら相手には微笑ましく映るのだろうと思うと少しだけ憎らしかった。
「泊まってきてくれて良かったのに……大変だったでしょう」
「今日は日帰り出来る距離でしたから。何日も貴方とライに会えずに過ごすだなんて、考えただけで辛くなる……ところで、食事は済ませましたか?」
「あぁ……軽く?」
インスタントスープとクラッカー二枚。貧国のレーションのような食事内容は、正直に伝えると眉を顰められると思い言葉を濁した。
「久々に例のタイ料理店で買ってきたんです。フライドライスヌードルとパパイヤのサラダで良かったですか?」
絶品料理の合盛りを十ドル以下で提供している街中の小さなタイ料理店。二人の行きつけで、夫が選んだ物はどちらもウィリアムの好物だった。自然と笑顔になって礼を言う。
「食べられる分だけ食べてください。閉店前だったので余っていた蒸し菓子と、おまけに缶ジュースまでつけてくれましたよ」
「それは凄い……ふふ、ハンサムな主人を持つと良いこと尽くめですね。心だけでなくお腹まで満たされる」
国籍や性別を問わず人々の人気を集める夫。件の店の従業員たちも御多分に漏れず熱を上げているのはウィリアムの知るところである。冗談めかして言うと、夫は嬉しそうに笑って腰に手を回した。
「貴方以外にはどう思われようと関係ないと思っていましたが、そういう訳にもいかなくなりましたね。ところで、少しは嫉妬してくれないのですか?」
ウィリアムの言を受けて、夫も色気たっぷりに軽口を叩く。ウィリアムはシルクのネクタイに手を当てて小さく笑った。
「一々嫉妬していたら身が持ちません。貴方の心が私に向いている間は目を瞑ります」
「それを言い換えるのに便利な言葉がありますよ……一生って言うんです」
息子の安眠のためという建前のもと、二人はチークダンスを踊るかのように密着して囁き合い、笑みを交わした。ウッディ系の上品な香りがウィリアムを癒し満たす。
それまでくすくすと笑っていたウィリアムが、不意に視線を落とした。溜息に気づいた夫が、大丈夫かと声をかける。
「いえ、何だか幸せだなと、胸がいっぱいになって……優しいダーリンが閉店間際という遅い時間にわざわざ好物を買って帰って、こうして二人で戯れて…………ライのしゃっくりを聞いてシャボン玉が弾ける音みたいだと柄にもないことを思ったり、ライの面白い瞬間が撮れたのを見て笑い合ったり……貴方とライアンが存在することで私の人生は眩く輝く。毎日が人生の絶頂という感じがするんです……レイ、貴方と一緒になれて良かった。貴方が私に与える全てに感謝しています。ありがとう」
起き抜けの羞恥心が弱った頭で吐露した思いに、常に余裕の笑みでいる夫が珍しく面食らった顔を見せた。
すぐさま普段の微笑に戻った夫の瞳がどこか潤んでいる気がしたウィリアムは、思わず白い手を伸ばして頬に触れる。
その肌は僅かに震えており、涙を堪えているようだった。伸ばした手が自分のものより広く逞しい手に包まれたかと思うと、手のひらに唇が押し当てられる。
昼間のシャニースに感化されたのか随分とドラマチックなことを口走った自覚はあるが、相手の反応も輪を掛けて大袈裟だとウィリアムは思った。
「夕食を食べ終えたらシャワーを浴びて、その……今日はちゃんとしましょうか」
いつにない夫の反応に愛しさが込み上げたウィリアムは、久し振りに自ら誘ってみたものの、照れて今一つな言い回しになる。しかし、F評価の誘い文句にも拘らず効果はあったようで、忽ち調子を取り戻した夫からは歓迎の返事があった。
どちらかがシャワーを浴びている間にライアンが目を覚まし授乳出来たら、最中に呼ばれることがなく都合が良いが……転寝で多少体力が回復したので、今晩は寝かしつけられることがない筈だ……夫は明日も朝早くから忙しい。事後は早々に引き上げて人事__
「ん……」
見つめ合ったまま高速で頭を働かせていると、キスで思考を遮られた。
「ウィルの気が変わる前に食事にしましょう。私が用意しますから、ダイニングに座っていてください」
耐性がなければ卒倒するであろう艶っぽい声と微笑で指示される。頃合いを見て主寝室を後にすることが果たして可能なのか、ウィリアムは少々不安になった。
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