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9 secret photo/video
「あんたの旦那、その辺のコメディアンより面白いわ。ちょっとミア、走らない!」
「本当にお馬鹿で情けなくなっちゃう。マックスの方がよっぽど賢いのよ」
「そう例の、マジだって! ああ、間違いないと思う、あれって撮影とかじゃなかったんだな」
「俺はダークチェリーにホイップクリームとチョコレートソースをトッピング、ワッフルコーンで」
「ハイ、ルーシー、随分とたくさん買ったのね」
道路脇のパーキングエリアに停車したウィリアムは、タイマーをセットすると抱っこ紐を装着し愛息を抱えて歩き始めた。道路を挟んで大きなパークに面しているこの広い通りは、いつ訪れても心地良い活気がある。
「ほら、木の上で小鳥さんが休憩しているね。見えるかな?」
街路樹の枝で羽を休める野鳥を見つけ、抱えた温もりへ優しく声をかけた。店舗側に顔を向けている愛息のために、ウィリアムは細身の体をくるりと半回転させる。
野生動物に興味を持つには数ヶ月早いと見えて、一瞥しただけで胸へ顔を埋めてしまった。その愛らしい頭にキスをして、ウィリアムは目指していた方向へ再び歩き始めた。途中、幾度か立ち止まっては愛息と街の景色を楽しみつつ、十分ほどで目的の店に到着する。
「お買い上げありがとう、良い一日を」
「ありがとう、貴方も」
店頭にあるテイクアウト用のカウンターで目当てのロブスターラップを購入したウィリアムは、カウンター前から離れると抱っこ紐の中を覗いた。
すっかり脱力して長い睫毛を伏せている息子に相好を崩した数秒後、不意に視線を左方向へと向ける。人々が行き交うその向こう。道路を背に、カメラのレンズをこちらに向けてセルフォンを構えた若い男がいた。
ウィリアムは手にしていたセルを抱っこ紐のポケットへ半端に差し込むと、強いストレスに痛いほど跳ねた心臓を落ち着ける暇もなく、ポーカーフェイスを装ってつかつかと男の元へ向かう。
「失礼。今しがた撮った画像をこの場で消していただけませんか? 写り込んでしまったかと思うのですが、写真に撮られるのが好きではないので」
「え……別に撮ってないし、自意識過剰なんじゃないですか? 有名人でもないのに」
キャップの庇の下で青い瞳が不安げに揺れ動くのをウィリアムは見逃さなかった。自分以上に強張っている顔が、筋張った手に握り締めたセルの中に画像データが存在することを知らしめている。
「たった今カメラを向けられただけなら偶然だろうと気にしませんでした。しかし、貴方には数ブロック前から跡をつけられているように感じていたので……これも自意識過剰ですか?」
ビジネスパーソンの勘で相手が小物だと見抜くと、ウィリアムはやや攻撃的な口調になった。疲労により思慮深さを欠いた頭が、早く決着をつけたいと急いている。
「私の勘違いであれば申し訳ないのですが、その画像をネット上にアップするつもりなら止めておいた方が賢明ですよ。例の動画の件で既に弁護士チームが動いているので直ちに削除されますし、貴方も訴訟の対象になります。一時の承認欲求と引き換えに時間とお金を無駄にして、経歴に傷をつけるのは嫌でしょう?」
ウィリアムはわざと煽るような物言いをして相手の反応を見た。不精髭の生えた細長い顎が、反撃しようとぱくぱく動いている。どうやら図星だったらしい。
新たなトラブルを警戒し気を張ってはいたが、この短時間で実際に発生するとは思わず、落ち着いた口調とは裏腹に胸の動悸が激しい。
動画内で出産を疑似体験していた人間が実際に子供を抱えているのを見てSNSの世界が現実と結びつき、本人であると確信したのだろうか。少々目立つ髪色等も判断材料となったに違いない。ウィリアムは静かな怒気を孕んだ目で相手を見据える。
「あっ……あんな動画曝されたくせに、生意気なんだよ間抜け野郎!」
穏やかな午後の道端に、いかにも出し慣れていない感じのする怒声が響いた。周囲の視線が突き刺さる。少々やり過ぎたか……ウィリアムはショッピングバッグを提げた手で息子を抱え身構えた。
「失礼、何か問題が?」
対峙している相手より一段高い位置から降ってきた馴染みの低声。小心者の売人が警官に呼び止められた時のような挙動で真横に首を捻ったウィリアムは、信じられないものを見る目でスーツ姿の夫を見上げた。
思わず一歩後退り、夫から離れようとする。加勢を有難いと思うより、隠していた厄介事を目の当たりにされた絶望が勝っていた。
「チッ、写真くらいで大袈裟だな! 気取り屋のアジア人がっ」
甘く紳士的な顔立ちながら背筋が凍るほどの凄みを帯びた男の登場に、分が悪くなったのを覚ったらしい。男はキャップを目深に被り直すと、面白みのない捨て台詞を吐いて小走りに去っていった。
「追いましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
矢を射るような目をして逃げた男を見つめる夫に、ウィリアムは小さく首を振る。忠告はした。先程の話を聞いてリスクを冒す度胸はない相手だと思われる。何より、これ以上、夫をこの件に関わらせたくなかった。
「大丈夫ですかウィル? 酷く顔色が悪いですよ」
「……いえ、突然知らない男に絡まれて少し驚いただけです。助けてくれてありがとうございました。それより何故ここに?」
実際は、件の動画によってついに直接的な被害に遭ったこと、それを夫に目撃されたことに酷く動揺していた。さり気なく抱っこ紐からセルフォンを取り出して録画機能を停止すると、パンツのポケットへ納める。
「先日、今度は何が食べたいかと尋ねたら、この店の名を挙げていたでしょう。出先から早く帰って来られたので、オフィスに戻る前に家でランチをと思ったんです」
数日前、テイクアウトのタイ料理を食べながら夫とそのような会話をしたことを思い出した。ウィリアムは自身の無邪気なリクエストを恨みつつ、鋭い視線には気付かないふりをする。
「そうだったんですね。こんな所で会えると思わなかったので驚きました」
平時であれば喜んだが今は違った。心配げな眼差しが居心地悪く、直ちにこの場を離れたい一心で、気の利いた言葉の一つも浮かばない。
『ピリリリ……』
『ピピピピ ピピピピ……』
ほぼ同時に鳴り響いた電子音によって、両者の間に漂っていた静かな緊張感が霧散した。パーキングメーターの予定時刻が迫っていることを告げるアラームを切りながら、ウィリアムは電話に出た夫をちらりと見上げる。薄情にも火急の要件であるように願った。
「__はい、では後程……すみませんウィル、急遽オフィスに戻る用事が出来てしまって。災難に見舞われた貴方を一人にしておくのは忍びないのですが……」
「私は平気です。駐車時間を過ぎてしまうので、もう行きますね……っ!」
挨拶もそこそこに場を離れようとするウィリアムの手首を夫が捕らえた。その力強さに息を呑む。
「あの男がまだ近くにいるかもしれません。車まで送ります」
「貴方に睨み付けられて怯んでいたので大丈夫でしょう。車まで数分の距離ですし。午後も頑張ってください、ではまた夜に」
「ウィル__」
先ほど演じた醜態は本当に些細なアクシデントだった。自分には何の問題もないという顔をして捲し立てたウィリアムは、腕を引いて拘束から逃れると物言いたげな夫を残しパーキングエリアへと急いだ。
息を切らしながら戻った車内。ウィリアムは弁護士事務所の連絡先を開き、通話ボタンをタップした。今しがた起きた出来事を伝え、念のため男とのやり取りを録画しておいたことを申し添える。
対応を感謝されつつ通話を終えると、大きく息を吐いてステアリングに凭れかかった。年齢より若く見られることの多い顔が、今は年相応かそれ以上に窶れている。
幼子を抱えた身で先の言動をするのは賢明な判断ではなかったと内省した。万が一愛息に危害が及ぶようなことがあったらと想像して肌が粟立つ。トラブルから一番遠ざけたかった夫にも、不体裁な現場を目撃されてしまった。
前世の自分であれば、このような窮地に陥ってはいなかっただろう……スムーズに車を発進させながらウィリアムは考えた。前世に思いを馳せることが多い日だと苦々しい気持ちになる。
私達は千年以上前にも血を分けた兄弟だった。当時の兄は燕秀という名が示すとおり非常に秀でた商人で、学があり聡明で人格者だった。常に平静を保ち、凛とした姿は憧れであり誇りであった……何十、何百と聞かされたセーラによる人物評。
ただでさえ自身のルーツやアイデンティティに関して考えさせられる機会が多いアジア系だというのに、加えて前世の偉容を刷り込まれるのは愉快なことではなかった。
プレティーンの自分が気まぐれに提案し採用されたセーラのミドルネームは、前世の名と同音異字であるらしい。微かに残った記憶がそうさせたのであろうと言われた時は心底気味が悪かった。
しかし、不気味な戯言だと忌避感を抱きつつ、人間形成への影響は否定できなかった。自分は実在したか定かでない人物を指標にしてきたきらいがあるとウィリアムは苦笑する。
現にこうして困難に直面した時、前世の自分であれば……と考える癖があった。特に体の調子が万全でない近頃は顕著で、病的なまでに囚われている。
帰宅後、暗澹たる気持ちで昼食を齧るウィリアムの元へ、夫からメッセージが届いた。
『無事に着きましたか? 申し訳ないのですが、今晩は帰りが遅くなりそうです。明日は予定通り休日なので、三人でゆっくり過ごしましょう』
その内容に寂しさよりも安堵を覚えたウィリアムは、先程のつれない態度を詫びつつ了解した旨を返信する。
トラブルの原因が気にならない筈はないのに、一言も触れてこないのが却って恐ろしかった。見知らぬ男に突如絡まれたと言ったのを信じてくれたのであれば有り難いが、あれほど敏い人間が疑問や違和感を持たない筈がない。帰宅後に追及を受けるのだろうと思うと、今から気が重かった。
レモン果汁やバター、マヨネーズなどと和えた食べ応えのあるロブスターがたっぷり包まれたラップサンドを、真顔のウィリアムは淡々と胃に送り込んだ。
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