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1 William Liu
『兄さんのことが心配なんです。兄さんはいつだって私たち家族に尽くしてくれるのに、どうしてこちらの申し出は受け入れてくれないんですか。私はきっと兄さんの役に立つはずです。三ヶ月弱ずっとお邪魔するつもりはありません。せめてひと月__』
アジア系アメリカ人のウィリアム・リウが凛々しい眉を顰めたのは、高層アパートメントの広い窓から容赦なく差し込む春の陽光のせいだけではなかった。欧米の血が流れているかのように色素の薄い瞳が陽の光を受けて輝くのとは逆に、その表情は全く精彩を欠いている。寝不足で重い体へ億劫の二文字が伸しかかった。
ジョガーパンツに薄手のセーターというラフな出で立ちでシンクの前に立ったウィリアムは、空の液体ミルクから乳首を取り外しつつ密かに溜息を吐いた。申し出を断るために口を開く。
「お前の気遣いをありがたく思うよ。心根の優しいまま今日まで成長してくれて嬉しい限りだ……しかし、お前がナニー養成学校の出だとでもいうのであれば話は別だが、今はまだ一般科目しか受講資格がない、幼児教育の専攻を希望しているだけの一大学生だろう。ついこの間までハイスクールに通っていた子供の手を借りるほどに困憊はしていないよ。私には頼りになる配偶者にハウスキーパー、シッターまでいるのだから」
『でも、近頃の兄さんはとても疲れた顔をしているし、今だって声に張りがありません』
お前の出る幕はないのだと一息に伝えても、相手は頑として引き下がらない。子供の反抗に気圧されることはないものの、聞き分けの良かった頃を懐かしく思った。
左のこめかみ付近の痛みが悪化した気がして、ウィリアムは洗い終えた乳首を手にしたまま目を閉じ苦痛に耐える。愛すべき肉親の声も今は毒でしかない。
『兄さんにとって私はライアンと同じくらい頼りない存在かもしれませんが、ハイスクールを卒業してもうじき一年経ちます。大学内の施設で保育のパートタイムジョブも始めたし、それに、私は前 ……とにかく、たまには私も兄さんの助けになりたいんです__』
途中、飲み込まれた言葉の続きを容易に推し当てたウィリアムは、腹の底に沈んでいた澱がぶわりと浮き上がったような気分になった。近頃はこちらの顔を見ると体調を気遣って煩いので、家事の最中だからとカメラ機能をオフにしておいて良かったと思う。今の自分は不愉快さを隠し切れていないに違いない。
「とにかく、今年の夏は家に泊めてやれない。休暇の間、学生寮を出る必要があるのなら、悪いが父さん達の所へ行ってくれ。予定が決まったら飛行機を手配してやるから連絡を。いいな。ライアンが泣き始めたから切るぞ。学年末テスト、持てる力を全て発揮できるよう祈っているよ。ではまた」
ウィリアムは少々早口で捲し立てると、ワークトップに置いていたセルフォンをタップして半ば無理やり通話を終えた。
やや険のある目をしていたのが、小さな画面に映る夫と愛息を見て相好を崩す。
前髪を上げネクタイを締めたいかにもエリートらしい平日のスタイルも好みだが、ポロシャツ姿で寛ぐ夫の微笑はウィリアムの胸を多幸感で一杯にした。
ガラスフィルム越しにこちらへ向けられたダークブラウンが、愛しさと幸福を雄弁に語っている。同じアジア系とは思えないほど長身の夫に抱かれている息子は、自分の腕の中にいる時よりずっと小さく見えた。
冷然とした印象を和らげている下がり目を一頻り細めたウィリアムは、手に取り眺めていたセルフォンを再び置くと、通話しながら電子レンジで加熱していたベビーグッズ用の除菌ケースを取り出した。庫内に充満していた湯気が吹き出す。
マルチタスクに余裕を失いかけている愚かな兄を見て、呆れずに救いの手を差し伸べようとしているのだから優しい子だと思う。昔から少々不思議なところはあったが、一貫して兄思いで気立てのよい子だった。
大学生活で初めて迎える学年末休暇である。学業は勿論のこと、幼少期から続けている習い事にも人並み以上に励んでいるまだ十代の学生が、家族の都合で犠牲を強いられるようなことがあってはならない。貴重な青春を謳歌させてやるのが年長者の務めだというのがウィリアムの考えだった。長子の矜持もある。
実のところ年の離れた肉親が心配する通り、ウィリアムは、社長業、家事、育児、リスキング等に追われる毎日に疲弊していた。代行サービスに頼り切る財力があるにも拘わらず家事も育児も最低限の利用に留めているのは自身の意思で、夫の協力が得られていない訳でもない。つまらない意地や理想のために自ら進んで苦労しているのだから、優れない体調も減っていく体重も自業自得だと承知している。
自身が経営するSMEとは比べ物にならない大企業に在籍する夫は、非常に子煩悩で他の物事同様に手際よく育児をこなした。在宅時は疲れも厭わず家族のケアに勤しみ、常に配偶者の意思を尊重する。夫として非の打ち所がない男は、数十年の人生で培ったとは思えない包容力をもってウィリアムを支えた。
夫に以前と変わらぬ安眠の場を提供するため、ウィリアムは生後間もない息子を連れて主寝室からゲストルームへと移った。珍しく難色を示した夫には、子供の泣き声と世話で共倒れになっては仕方ない、在宅勤務への切り替えと共に労働量を減らした自分には、昼間十分に休む時間があるから平気だと説得をした。実際は抱えた仕事を一つも手放さず、却って増やしている。
息子が起きている間、ウィリアムはつきっきりで世話を焼き愛を注いだ。
何をするにも恐る恐るだった新生児期や、酷い細切れ睡眠に翻弄されたその後に比べると落ち着いたものの、昼夜を問わないぐずり泣きは健在である。
泣き喚く子を抱いてあやすうちに一時間近く経っているのも珍しい話ではなく、深夜の授乳や寝かしつけも欠かせないままだ。
そのような状況下で育児や家事の隙を見て、あるいは夜中に隠れて、ウィリアムは社の経営に携わっている。
細身ながら体力には自信がある質だ。分娩で体が傷ついてもいないだろうという己へ向けた鼓舞激励の言葉は、最早効力が消えつつあった。
目の高さにあるビルトインタイプの電子レンジに映った自身の姿。生白い顔には隈が目立ち、蜜を溶かしたミルクティのようだと夫が褒める髪は数ヶ月の間にだらしなく伸びている。
次の出社日にヘアカットの予約を入れよう。今からシッターの利用時間を延長出来るだろうか__
「っ……!」
熱湯を切ろうとしてケースが滑り、その殆どを左手に注いだ。親指の付け根から手首にかけて、白かった肌が瞬時に赤く染まる。不注意を嘆くより早く、ウィリアムは勢いよく水を流して患部に当てた。自宅での出来事かつ夫の不在時であったのは不幸中の幸いだが、気を引き締めなければと思う。
流水に濡れる薬指のリングを見下ろしながら、不意に疑問が浮かんだ。長時間キッチンに立ったのは、一体いつが最後だったか……
近頃は夫の優しさに甘えて、すっかり手の込んだ料理をしていない。ハウスキーパーの手料理を温めるか、夫が用意した物が食卓に上ることが多かった。毎日出社していた頃の方が、余程しっかりキッチンに立っていたなと思う。
数週遅れになるがイースターにちなんだ料理でも作ろうか。その頃ちょうどライアンの下痢が続いてそれどころではなかったから……ローストラムと簡単なパンを焼いて、久々に赤ワインを……
注意だけでなく思考も散漫になっているウィリアムに、新たな疑問が湧いた。最後と言えば、夫と最後に愛し合ったのはいつだったろう……冷やし終えた手を拭きながら考える。
産後の女性ではないのだから行為に制限はないのに、余裕がない自分を見て手を出さずにいるのだろう。こちらも夫と出会う以前の自分に戻ったかのように肉欲とは無縁の日々を過ごしており、相手の欲求に思いを馳せることもなかった……
ウィリアムは整った細面を不甲斐なさで曇らせつつ、冷凍庫からアイスパックを取り出した。
朝のルーティーンの後で眠りに落ちた我が子が目を覚まさないうちにと、急ぎ足で自室に向かう。ラップトップを立ち上げベビーモニターのスイッチを入れたウィリアムは、怜悧な経営者の顔つきになって、まずは自社の広報に関する資料に目を通し始めた。
「お腹が空いたね、ライアン。一人でぐっすり眠れていい子だ。風邪もすっかり治ったね」
一時間半ほどデスクワークをしたところで、卓上のベビーモニターから歯のない口で文句を言う声が聞こえた。キッチンで液体ミルクとシリアルバーをピックアップしてリビングへと戻ったウィリアムは、ぐずる寸前の我が子をベビーベッドから抱き上げると、まだ地肌の目立つ小さな頭にキスを送った。
長い睫毛に二重瞼の大きな瞳が不機嫌そうにこちらを見上げている。そんな表情すら愛らしく、今度は丸くつややかな頬にキスをした。夫にマシュマロやバニラモチなどと呼ばれている我が子の頬は、その名に恥じない柔らかさでウィリアムの愛を受け止める。
口元や手が濡れているのは拳を咥えていたせいか。年初に誕生して三ヶ月以上が経つが、日々愛らしさを更新していくのだから末恐ろしい。
ソファに腰を下ろしたウィリアムは、横抱きにした我が子にミルクを与えながら、暇潰しにつけたテレビ画面をぼんやりと眺める。
モーニングショーの特集で、幼い四つ子を抱えた有名一家の日常と家族旅行の模様を放送していた。笑顔の両親にもカメラの裏では計り知れない苦労があるはずだと承知していても、乳児一人を育てるのに手一杯な自身と違って酷く輝いて見える。ビーチリゾートを満喫する一家の記録を素直に楽しむことが出来ず、ウィリアムは無表情でチャンネルを変えた。面白みのない冷凍食品のコマーシャルにどこかほっとする。
ミルクを飲み終えた我が子を縦抱きにした。くたりと顔を横向けているために、温かい後頭部が頬に当たる。幸せなくすぐったさに、ウィリアムは一際目を細めた。
膝上での排気を嫌がる息子の為に縦抱きにしているが、数ヶ月前と比べて随分重くなったと感じる。月齢的にそろそろこのサポートも不要になるのだなと考えて、お互い楽になり喜ばしいことだと思う一方で一抹の寂しさを覚えた。
飲み込んだ空気を吐かせるために背中を叩きながら、午後の予定を再確認する。各種会議に外部との打合せ、インターンの面接、書類のチェックとサイン等々……週に一度設けた出社日、それも午後に予定を詰め込んだので酷くスケジュールがタイトだ。その上、退勤後はケーキショップへ寄って、シッターのシャニースにチョコレートケーキを買って帰ろうと考えていた。先日、高熱を出した息子を病院へ連れて行ってくれた礼に好物を。それから__
「げぽっ」
眠気に襲われているのか、体温と重さのみを伝えて脱力していた我が子が、空気と一緒にミルクを吐いた。近頃は吐き戻しの回数も減り、油断してガーゼを敷かなかったため左肩が一面湿ったのを感じる。横抱きにして様子を見ると、真っ赤にした顔をぎゅうと歪めていた。普段はどれだけ吐いてもけろりとしているので、余程不快だったらしい。
「ふっ んぎあ゛あぁああ んぎゃあああ!」
「ほらライライ、怒らないよ。久しぶりにお鼻からも出て嫌だったね。もっと赤ちゃんだった頃は、この小さなお鼻からよくミルクを出していたんだけど、もう忘れてしまったかな」
優しい声色で微苦笑したウィリアムは、ガーゼタオルで丁寧に口周りを拭いた。スーツに着替える前で良かったと独り言ちつつ、今度は右肩に小さな頭を乗せて背中を擦る。
落ち着いた息子の背中を寝かしつけのために叩きながら、ウィリアムは何気なくテレビ画面に目を向けた。世界の事件や事故などを紹介する人気バラエティ番組の再放送。事故で過去の記憶を失ったらしい女性が、恋人に誘われしぶしぶ応じたデートで思い出話を語られ、楽しそうに興味を示している。
『この店も二人でよく来ていたの?』
『ああ、週に一度通っていた時もあったよ。君は……』
『待ってニック、このタルタルソース尋常じゃなく美味しい。デビルドエッグに似てるけどクリーミーで味付けが絶妙なの。私が食べ尽くす前にあなたも食べた方がいいわ……何がおかしいの?』
『……いや、君はこの店へ来るたびにそのフリッターを注文して、ソースを絶賛していたんだ。今みたいにね』
『そう……あなたはそんな食いしん坊のこと、とても愛していたのね。なんだか泣きそうな顔して笑ってた』
『__塞ぎ込んでいたのが嘘のように楽しい日でした。私はその日のデートで思い知らされたんです。彼がどれほど私を愛していたかを。そして、その愛が今も全く褪せていないということを。私はすっかり彼を忘れてしまったのに、それでも君は君だ。今も変わらず世界一素敵な女性だよと言って私を肯定してくれたのが嬉しくて、同時に安心したのを覚えています。私はあっという間に二度目の恋に落__』
ソファの上に置いていたリモコンを掴んだウィリアムは、女性の回想を聞き終えることなくテレビの電源をオフにした。
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