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第1話 暗礁の日々(9)
そして、一日が終わり、ミンウェイは自室に戻る。
静けさに満ちた、ひとりきりの部屋。時折、夜風が窓を叩いては、硝子を揺らしていく。その響きは、少しだけ潮騒の音に似ていた。
リュイセンに連れていかれた、両親の墓のある小さな丘。あそこから臨む、あの海の――。
『ミンウェイ。俺と結婚しよう』
その返事を、ミンウェイはまだしていない。
ミンウェイは、化粧を落とした自分の顔を鏡に映した。華やかに波打つ髪のせいで、だいぶ印象が変わっているが、自信なさげに脅えた瞳は子供のころのままだった。
「……」
もしも――。
この春を迎える前に告げられたのなら、ミンウェイは迷わなかった。
喜んで、リュイセンの言葉を受け入れた。
漠然とではあるけれど、ずっとリュイセンと一緒になるものだと思っていた。いつか総帥になる彼を支えるのは自分の役目で、それが皆のためになると信じていた。
「でも、それじゃ、リュイセンが不幸になるじゃない……」
リュイセンには幸せになってほしい。けれど、ミンウェイとでは、彼女の『復讐』の呪縛を彼も背負ってしまうことになる。
幸せというのは、ルイフォンとメイシアのような関係をいうのだ。
あのふたりが互いに向ける想いは、同じ重さだ。けれど、リュイセンとミンウェイでは、天秤が傾いてしまう。
それとも、時が経てば、徐々に釣り合ってくるのだろうか。年齢の開きが、だんだんと誤差になってきたように……。
ミンウェイは深い溜め息をついた。今夜は寝つけそうになかった。
既に夜着に着替えていたが、彼女は薄い上着を羽織り、ふらりと庭に出た。
淡い色の外灯が足元を照らし、まばゆい月の光が頭上から注がれる。
心地の良い風に流されるままに歩くと、温室にたどり着いた。無意識のうちに、馴染みの場所を選んだのかもしれない。
そして、ふと思い出す。
もう、十年くらい前になるだろうか。ミンウェイはここで、月を見ながら泣いていた。
後継者だったレイウェンが一族を抜け、総帥の補佐をしていたユイランも共に屋敷を出た日のことだ。
ユイランの代わりを務めることになったミンウェイは、不安に押しつぶされそうになっていた。月に誘われるように庭に出て、涙で時を過ごしていたら――……。
「ミンウェイ!」
自分の名を呼ぶ声に、ミンウェイは、びくりと体を震わせる。
「リュイセン……」
一瞬、過去に戻ったのかと錯覚した。
何故なら、あのとき、この場に現れたのも、リュイセンだったからだ。まだ幼い、子供のリュイセン。身長だって、彼女よりも低いくらいの――。
瞳を瞬かせて見やれば、そんなおとぎ話のような事実はなく、現在のリュイセンが息を切らせていた。
「リュイセン、どうしたの?」
「『どうした』は、ミンウェイだろう! こんな夜更けに、夜着姿で出歩くなんて。窓から見つけて、飛んできたぞ」
そう言いながら、彼は手にしていた上着を彼女に押し付ける。
「え? 別に寒くないわよ?」
部屋を出るときに、一枚羽織っている。それに、もう夏になるのだ。
「そうじゃなくて! 頼むから、如何にも夜着って、分かる格好で出歩くな! 無防備だぞ」
「そんな、気にするほどのことじゃ……」
「俺が気にする!」
叩きつけるように言って、リュイセンは視線をそらす。
そんな態度に出られたら、従わざるを得ないだろう。ミンウェイは、彼の差し出した上着におとなしく袖を通す。中に着た夜着が見えないように、きちんとボタンも留めた。
リュイセンのものであろう上着は大きくて、肩の位置がずるりと落ちた。まるで彼に抱きしめられているようで、落ち着かない。彼が小さいときには、何も気にせずに、彼女のほうからじゃれついていたのに……。
「これでいい?」
ミンウェイは首を傾けて、リュイセンを見上げる。背の高い彼女より、彼のほうがもっと高い――高くなったのだ。
「――ああ」
そう答えたものの、彼はそっぽを向いたままだった。
……気まずい。
思えば、プロポーズ以来、まともに言葉を交わしたのは初めてのような気がする。食堂や会議で会っても、どことなく避けていた。
「ミンウェイ……」
リュイセンが、ぽつりと呟いた。
「俺は、無礼なことをした」
「えっ?」
リュイセンはゆっくりとこちらを向き、彫刻のような黄金比の美貌を月光に晒した。光と影で縁取られた顔は、優しげで切なげで、ミンウェイはどきりとする。
「この前、緋扇シュアンが屋敷に来たとき、奴は温室にいるミンウェイのところに寄ったよな。あのとき俺は、密室にふたりきりは危険だと、こっそり奴を見張っていた。……結果、盗み聞きをした」
「えっ!?」
胸の奥から、羞恥がこみ上げた。
聞かれたくなかった。……やましいことはないのだが、なんとなく。
顔色を変えたミンウェイに、リュイセンが「すまん」と、深々と頭を下げる。大きな体がじっと耐えるように固まっていて、どうなじられても構わないと覚悟しているかのようだった。
あまりの大仰さにミンウェイは戸惑い、一度大きく揺れたはずの感情が、すっと鎮まる。
「過ぎたことだわ。もういいから、顔を上げて」
彼女の言葉に、彼はもう一度だけ「すまん」と告げてから、顔を上げる。しかし、許しを得たにも関わらず、厳しい表情をしていた。
「緋扇シュアンに言われなくても、俺も気づいていたよ。――ミンウェイは鷹刀に遠慮がある」
「……っ」
「だから俺は、ミンウェイにプロポーズした。自分の居場所は鷹刀なのだと、ミンウェイが自信を持って言えるように。その根拠を作ってあげたいと思った。――『後継者の妻』という地位によって」
「リュイセン……」
彼の名を呟いたきり、言葉が続かない。
声を詰まらせるミンウェイに、リュイセンはふっと表情を和らげた。
「でも、俺の独りよがりだったな。……俺は、ミンウェイを困らせただけだ」
「そんなことは……」
ない、と言いかけたミンウェイを、リュイセンが「あるだろう?」と、神速で遮る。
「ミンウェイは、困って、悩んで……こうして夜中にふらふら出歩いている。違うか?」
彼女は、息を呑んだ。その仕草で、伝わってしまう。
リュイセンは柔らかに苦笑した。
不快な顔になっても、ちっともおかしくない状況なのに、彼はどこまでも穏やかで優しい。……今までの彼とは、雰囲気が変わった気がする。
「俺は、ミンウェイが悩んで、苦しむことなんて、望んでいない。だから――」
真摯な眼差しが、彼女に向けられた。
夜風にふわりと巻き上げられた彼の髪が、月光と混じり合い、輝く。その様は、まるで黄金の毛皮を持つ、気高い野生の狼……。
「――だから、あのプロポーズは、なかったことにしてほしい」
決然とした低い声が、静かに響いた。
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