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第2話 目覚めのない朝の操り人形(1)
時は遡り、二ヶ月前。
桜が散り去ったばかりのころ――。
「私が……あなたに教えた『最期』は、……嘘よ」
高熱に潤んだ赤い瞳で、熱暴走が止まらなくなった〈蛇〉――〈天使〉のホンシュアは妖艶に嗤った。
陽炎の揺らめく、薄暗い地下の一室。薄いキャミソールワンピースからむき出しになった白い肩に、長い黒髪が汗で張り付く。
「どういうことだ!? 何が嘘だというのだ!?」
〈蝿〉は余裕をかなぐり捨て、彼らしくもなく必死の形相で迫った。
「あなた、が……目覚めたとき……教えた、あなたの――『鷹刀ヘイシャオ』の死因は、嘘……。だから、あなたの復讐……は、お門違い……なのよ」
そう言って〈蛇〉は、苦しげに微笑む。
熱気が、〈蝿〉の肌を灼いた。ひりひりとした感覚に、彼は顔をしかめる。
この女は間もなく死ぬ。その前に、洗いざらい聞き出さねばならない。
『彼』が作り出された、その意味を――。
〈蝿〉の脳裏に、彼が『彼』として、目覚めた日のことが駆け巡る……。
気づいたら、そこは彼のよく知る研究室だった。
彼は手術台の上にいて、体の上には白い布が掛けられていた。けれど、服は身に着けておらず、裸体である。
不可解な状況に、彼は眉をひそめた。半身を起こすと、くらりと目眩がした。自分の体が、自分のものではないような気がする。
「!?」
肩に、それから腕に背に――。
素肌の上を、さらさらとした柔らかな感触が流れ、彼はぎょっとした。そして、その正体を解したとき、彼は更に驚愕した。
自分の髪の毛――だった。
長く長く、腰に届くほどまでに髪が伸びていた。この国では、男の長髪は珍しくはないが、彼自身は今までに一度も、首筋よりも下に伸ばしたことはなかった。
しかも。
その髪には、ちらほらと白髪が混じっている……。
信じられない思いで目を見開けば、胸元に掛かる伸び放題の髭に気づく。――そして、髭にもまた、白いものが混じっていた。
――知らぬうちに、歳を取っていた。
髪だけではなく、皮膚の老化や筋肉の衰えから断言できる。
医者である彼の見解からすれば、この体は四十代半ばから五十路手前のものだ。だが彼は、三十代であるはずだ。
……なんらかの実験で、自分自身を眠りにつかせたのだろうか?
状況を確認しようと、あたりを見渡せば、少し離れたところに硝子ケースがあった。
培養液で満たされたそれは、彼にとって馴染みのもので、生物を成長させ、あるいは生命を維持するための揺り籠だ。
中身が気になった彼は、体に掛けられていた白い布をまとい、近づいていく。長いこと掃除がなされていなかったのか、歩くたびに足元からふわりと埃が舞った。
おぼつかない足取りは、リノリウムの床の冷たさが裸足の足を刺すからか、それとも……。膝を震わせながらたどり着くと、彼はケースの中を覗き込んだ。
「!?」
息を呑んだ。
心臓が、早鐘のように打ちつける。
女がいた。
人ひとりを収めるにしては充分すぎるほどの大型のケースの中で、長い髪が大きく広がり、培養液の中で揺らめいている。漂う髪は、まるで裸体を隠す衣のよう。
垣間見える皮膚や爪から推測するに、決して若くはない。四十代といったところだろうか。
そして、その顔は……。
「ミンウェイ……」
愛しい妻の名を、彼は呟く。
彼の妻は、若く美しいままで時を止めた。――止めてしまった。
だから彼は、二十歳を超えた彼女を知らない。
なのに、すぐに分かった。
これは、彼女が時を重ねた姿である、と。
本来は存在しないはずの年月を積み上げてなお、彼女は清らかで麗しかった。
「…………あぁ」
気づいたら、涙がこぼれていた。
大の男が――。無様にも程がある。
そう思いながらも、涙はとめどなく流れ続ける。
速やかに状況を把握すべき事態なのに、彼女に逢えたと思った瞬間に、彼女以外のすべてを忘れた。
そうして、どのくらいの間、彼女を見つめていただろうか。
ふと、研究室の扉の外に、人の気配を感じた。彼は、反射的に硝子ケースを背に守る。
「落ち着いたようね」
中に入ってきたのは、若い女だった。きっちりと結い上げられた髪に、濃いめの化粧ばかりが目につく、派手な女だ。
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