第2話 目覚めのない朝の操り人形(6)

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第2話 目覚めのない朝の操り人形(6)

「なっ……!?」  白金の糸が、あとからあとから、あふれ出した。研究室は、あっという間に目もくらむような、まばゆい光に包まれる。  光の糸は大きく横に広がり、互いに絡み合い、紡ぎ合わされていく。そして、またたく間に、生き物のように(うごめ)く光の翼を作り上げた。 「〈天使〉……」  彼は唾を呑んだ。 「ご覧の通り、この肉体は〈天使〉化させてあるわ。これを見ても、私が『普通の〈影〉』で試したということを信じられないかしら?」 「……っ」  額に、冷や汗が浮かんだ。長い髪が張り付き、彼は鬱陶しげに払う。 〈(サーペンス)〉が羽を見せたのは、彼を納得させると同時に、牽制の意味を含んでいるのだろう。下手に彼女の機嫌を損ねれば、〈天使〉の力で支配されかねない……。  彼の面持ちが緊張を帯びたのを確認すると、〈(サーペンス)〉は続けた。 「だけど、『普通の〈影〉』では生前の天才医師〈(ムスカ)〉の足元にも及ばなかった。それで、私は『死者を蘇らせる』ことを考えたの」  随分と勝手なことを、さも当然とばかりに〈(サーペンス)〉は告げる。それから彼女は、ほんの少しだけ、きまり悪そうに顔を歪めた。 「あなたはさっき、その『肉体』が『記憶』の年齢と合っていないことの説明を求めたわね。――答えは簡単。私には、『記憶』に見合った『肉体』を用意することが難しかったからよ」  どういうことだ? と、彼は一瞬、怪訝に思い、すぐに気づいた。 「私が組み上げた『肉体の急速成長』技術は、そう簡単には再現できるものではありませんからね」  とても複雑な技術なのだ。彼の研究報告書を片手に真似たところで、やすやすとは成功すまい。――と、彼は思ったのだが、〈(サーペンス)〉の答えは、それ以前の問題だった。 「そうね。私には再現できなかったかもしれない。けど、そもそも私には、クローン体の(もと)となる細胞を手に入れることが難しかったのよ。何しろ、〈(ムスカ)〉はとっくの昔に死んでいるのだから」 「……」 「髪の毛か何かが残っていないかと〈(ムスカ)〉の研究室を探していたとき、偶然、その肉体を見つけたの。本当に運が良かったわ、オリジナルが『自分』を作っておいてくれるなんて。時間もなかったことだし、年齢の合ったものを新しく作るなんて考えずに、その肉体を使うことにしたわ」 「……なるほど」  得心しつつも、〈(ムスカ)〉の心に深い憎悪が宿った。 「おそらく、その肉体は『スペア』ね。外見から推測して、オリジナルが生きていれば『あなた』と同じくらいの歳になるもの」 〈(サーペンス)〉の言葉に、彼は眉を寄せた。彼が作られた存在であることを繰り返し言われるのは不快だった。  そして同時に、彼は気づいた。  人ひとりを収めるにしては、充分すぎるほど大型の硝子ケースの中にいる『ミンウェイ』。――存在しないはずの年月(としつき)を重ねた彼女。  彼女の隣で――同じ硝子ケースの中で、この肉体は共に歳をとっていたのだ。 〈(サーペンス)〉の言うような、オリジナルの『スペア』としてではなく、『ミンウェイ』の『(ペア)』として……。  彼には『(ペア)』の肉体(ふたり)を作った記憶はない。だから、彼の持つ『記憶』が保存されたあとで、オリジナルのヘイシャオが作ったということになる。いったい、どんな意図があったというのか?  非常に気になる疑問だ。  しかし、今は目の前にいる〈(サーペンス)〉への対処をするべきときだった。彼は、軽く頭を振り「それで――」と、脈打つように明暗を繰り返す〈(サーペンス)〉の羽を一瞥する。 「私が取り引きに応じない場合には、あなたは〈天使〉の力を使うおつもりですか?」  他人に支配されるなど、考えただけでもおぞましい。  彼はおもむろに立ち上がった。訝しがる〈(サーペンス)〉を横目に、壁際の薬品棚へと向かう。  埃をかぶっている様子から、〈(サーペンス)〉は書類の類は勝手にいじっても、薬には触れなかったらしい。ならば、この中には、彼の記憶通りに劇薬があるはずだった。  硝子の戸は、かつてよりも古びていたが、思ったよりも滑らかに開いた。彼は薬瓶をひとつ取り出し、〈(サーペンス)〉に示す。 「オリジナルの私の体は毒に慣らしていましたが、この肉体は『新品』です。毒物への耐性がありません。あなたの大事な『肉体』を台無しにすることは容易なことです」 「……なっ!?」  今まで高飛車だった〈(サーペンス)〉の顔が一瞬にして青ざめた。 「そ、そんなことをすれば、『あなた』も死ぬってことでしょう? 復讐はどうするの!?」 「あなたに支配されるくらいなら死んだほうがマシです。そもそも、私は死んでいるのですから」  勿論、そんなことは思っていない。口先だけの話だ。  それに、彼が手にしているのは無害な薬だった。初めは劇薬を取るつもりだったのだが、直前で考え直した。  何も本当に、この肉体を危険に晒すことはないのだ。  ラベルの付いていない薬瓶の中身は、〈(サーペンス)〉には分からない。彼が倒れれば、劇薬を飲んだと信じるだろう。  今までの会話から、彼女は『記憶』を研究する〈悪魔〉のようで、医学の知識はないとみた。  人を呼びに部屋を出ていけば、それが一番よくて、その隙に逃げる。そうでなくても動揺した女ひとりなら、たとえ〈天使〉であっても倒せるだろう。 「待って! 私は〈天使〉の能力で、あなたを強制するつもりはないわ」 「ほう? それはまた何故ですか」 「医者の手術に、常にリスクが伴うのと同じことよ。しかもこの場合、健康な体にわざわざメスを入れるのと、まったく同じ」 〈(サーペンス)〉は溜め息と共に、言葉を吐き出す。 「人間の脳は、ひとつの完成されたシステムよ。そして、その完璧な(プログラム)に、余計な嘘の記憶(データ)命令(コード)を手探りで書き込んでいく行為が、〈天使〉の介入。一歩、間違えれば、システム全体を――つまり脳を壊してしまう。要するに廃人ね。そんな危険なこと、大事な肉体にしたくないわ」 「ほほう。では、私と『〈(サーペンス)〉』は、あくまでも利害に基づいた、対等な関係ということですね?」 「ええ。この『私』――『ホンシュア』ではなく、『〈(サーペンス)〉』と対等ということでいいわ」  言質を取るべく含みをもたせた彼の言葉を、〈(サーペンス)〉は正確に理解した。その上で、構わぬと答えた。 「……ふむ」  頭の良い奴だと、彼は思った。  そして彼は、打てば響く反応ができる人間を、決して嫌いではなかった。  例えば、かつての共同研究者、〈(スコリピウス)〉。『死者の蘇生』の『記憶』に関する部分で協力してくれた〈悪魔〉であるが、彼との知的な会話は実に興奮した。実験体が逃げないようにと足首を切り落とすような悪趣味な嗜虐心には閉口したが、良い友人であったと思っている。  ――互いに利用する前提で〈(サーペンス)〉と手を組むのも、悪い話ではないかもしれない……。
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