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第2話 目覚めのない朝の操り人形(9)
〈蛇〉は満足げに頷いた。
対して、〈蝿〉は不快げに鼻を鳴らす。
「まんまと騙されましたよ。たいした策士です。ありもしない復讐をでっち上げ、それを取り引き材料に、私を踊らせるとは! さぞかし、愉快だったでしょう!」
〈蝿〉が吐き捨てた瞬間、苦しげにうめいていた〈蛇〉が、かっと目を見開いて叫んだ。
「そんなことないわ!」
叫んでから、〈蛇〉は、ごほごほと咳き込む。
「〈天使〉を……あんなふうに使うとは、聞いてなかったわ! 鷹刀イーレオ……捕まえたあと、記憶に介入して、復讐に使うって……言っていた……のに!」
「途中で気が変わっただけです。〈天使〉は、『協力の証として』いただいたものです。用途についての約束はしませんでしたよ」
声を荒らげ、怒り、苦しむ〈蛇〉の姿に、〈蝿〉は少しだけ溜飲を下げる。
手を組むと決めたとはいえ、〈蝿〉は〈蛇〉を信用したわけではなかった。対抗手段を備えておくべきと考えた。
そこで、適当な理由をつけて、自由に使える〈天使〉を要求したのである。『与えられた〈天使〉』の数の中に、〈蛇〉――正確には〈影〉である『ホンシュア』が含まれていたのは、熱暴走で死ぬことになる〈天使〉の数を減らしたかったためらしいのだが、なんとも滑稽な話であった。
――〈蛇〉の作戦では、〈蝿〉に役割はなかった。待っていれば、鷹刀イーレオの身柄を引き渡す、と言われていた。
しかし、猜疑心の強い〈蝿〉が、他人に任せきりにするはずがなかった。斑目一族の食客となって内部に入り込み、適当な人間を〈影〉に――手駒にした。彼としては至極、当然のことをしたまでである。
「私の、作戦に……〈天使〉は必要なかった、わ……!」
「あなたの作戦、ね。――そうですね。あれは、『あなたのため』の作戦でした。『私に、鷹刀イーレオの身柄を引き渡すため』の作戦ではありませんでしたね」
「何を……言いたいの?」
「鷹刀イーレオの身柄を確保するだけなら、〈天使〉のあなたが、鷹刀の屋敷の人間をひとり操って、鷹刀イーレオを呼び出すだけで充分だったんですよ」
〈蛇〉は、はっと息を呑み、それから作ったような苦笑をする。
「それも、そう……ね。策を、練りすぎた……わ」
「違うでしょう? あなたは初めから、鷹刀イーレオを捕らえる気などなかったのです。何故なら、『お門違い』だと知っていたのですから」
「……」
反論の言葉を思いつけなかったのか、〈蛇〉は何も返さなかった。〈蝿〉は、満足げに低い声で嗤う。
「あなたは、死出の旅に出る前にと、必死な顔で『鷹刀は無関係』と告げました。私が鷹刀に危害を加えるのを止めるためです。つまり、あなたは鷹刀を大切にしている。――でも……、矛盾していると思いませんか?」
そう言って、〈蝿〉は〈蛇〉の反応を探るように、彼女の顔を覗き込む。
「……何、かし……ら?」
「あなたの大切な鷹刀が、警察隊や斑目に襲われ、危険に晒されるような作戦を――どうして立てたのですか?」
「!」
「私を騙すためだけなら、『嘘の復讐相手』は、誰でもよかったはずです。けれど、あなたは鷹刀イーレオを選びました。――それは、何故か……?」
熱で上気していた〈蛇〉の顔から、色が抜けていく。大きく見開いた瞳には、〈蝿〉だけを映す。
「『鷹刀を巻き込む必要があったから』――です」
凍れる声が、高熱を裂いた。
冷気と熱気が均衡し、何かが弾けたような声が響いた。
「……ふふ……、どうかしら……ね?」
〈蛇〉が笑っていた。
そして、ひと筋の涙をこぼす。
「何を泣いているんですか?」
「……私の『罪』、に。でも……後悔は……しない、わ……」
〈蛇〉が、柔らかに微笑んだ。
この場にそぐわないような、優しく清らかな顔。〈蝿〉は戸惑い、焦る。
直感がした。
もう、最期なのだ、と。
「聞きたいことがある!」
〈蝿〉は叫んだ。
「……」
「あの作戦の結末から考えると、お前の目的はひとつ――!」
「……」
「『藤咲メイシアを、鷹刀の屋敷に送り込むこと』だ!」
「……」
反応のない〈蛇〉に、〈蝿〉のこめかみの血管が浮き立った。ぎりぎりと歯をきしませ、拳を握りしめる。
そして、ずっと抱いてきた疑問を叩きつけた。
「藤咲メイシアに、何がある? あの娘に、何が隠されている!? お前は、あの娘に直接、会った! あのとき、何をしたんだ!」
仕立て屋に化けて、藤咲メイシアに接触を図った。あの日から、〈蛇〉の体調は急変した。高熱が続き、横になっていることが多くなった。
――〈蛇〉は、うつろな目のまま、じっと動かなかった。
〈蝿〉は舌打ちをした。
もはや、これまでか。
そう、諦めかけたときだった。〈蛇〉の口元が、わずかに震えた。
慌てて耳を近づければ、熱い吐息と共に、細い声が入ってくる。
「……それを知って、どう、するの? 『あなた』は、……幸せに、なれる、の? ……ヘイシャオ……叔父さんの、……『〈影〉』」
「!? お前っ!」
思わず拳を振り上げた彼に、〈蛇〉は淋しげに微笑んだ。
「……私を殴るの? 無駄なことを……。放っておいても……、私はじきに死ぬわ」
その言葉の正しさを証明するかのように、〈蛇〉の体がびくりと痙攣し、苦しげな呼吸を繰り返す。
「オリジナルの、ヘイシャオ叔父さん……。幸せ、そうな……死に顔だった……って」
「そんなこと、どうでもいい!」
「……けど、『あなた』は、これから……どうする……?」
「……っ!」
「決して……、目覚めることのない朝を、求めて……。かわい、そう……」
〈蛇〉の双眸から、涙がこぼれ落ちた。
だがそれも、あっという間に蒸発し、わずかなあとだけが肌に残る。
「〈蛇〉……」
そのとき、〈蛇〉の背中から凄まじい熱量を持った光が溢れ、白い肌を裂いた。
「――――!」
悲鳴にならない悲鳴が、ほとばしった。
〈天使〉の最期だ。
与えられた〈天使〉をことごとく失ってきた彼は、今までにそれを何度も見てきた。
せっかくの便利な道具が壊れると、悪態をつきながら見てきた。
――なのに今は……。
…………。
……。
「……『あなた』……私のこと、嫌いだった……はず、……なのに、なんで……そんな、顔……?」
彼女が顔を上げた。頬に張り付いていた黒髪が、はらりと落ちる。
「やっぱり、『あなた』……、お父さん、そっくり……。やりにくい……。憎めない、もの……」
苦しげな息遣いの中で、彼女が笑った。
背中は熱に灼かれ、激痛が走っているはずなのに……。
「……叔父さん……、メイシア……あの子は……」
「え?」
何かを言おうとしている彼女の口元に、彼は耳を寄せた。耳朶が灼けるように熱い。
「…………………………」
「!」
目を見開いた彼に、彼女は頷いた。そして、か細い声を漏らす。
「『〈蝿〉』に言うべき、情報……じゃ、ない。……けど、『あなた』が、これ、で……少し、でも……」
熱風が部屋を駆け抜け、殺風景な部屋にぽつんと置かれていたテーブルを倒した。
だが、その音は、彼の耳には聞こえない。
彼に響くのは、ただ〈天使〉の祈りのみ――。
「私……あなた……大嫌い……だった。けど、同じ……なの。私も……、あなたも、『罪』だと……分かっていても……。だから……」
di;vine+sin……。――『命の冒涜』……。
「『あなた』を……作り出して……ごめんなさい……」
彼の耳元で、優しい声が響く。
「……『あなた』の、最期が、……安らかであることを……願う、わ」
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