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第3話 箱庭の空(4)
「パパ?」
ファンルゥの声に、タオロンは、はっとする。
「ああ……、すまん」
生き延びることに精いっぱいで、娘の気持ちを理解してやる余裕がない……。
ふとタオロンは、机の上にある描きかけの絵を見つけた。――クレヨンや絵本など、この年頃の子供に必要そうなものは、〈蝿〉がひと通り手配していた。
「〈天使〉……」
小さな女の子が、羽の生えた女と仲良く手を繋ぎ、空に向かって飛んでいる。ふたりが目指すのは、雲の上だ。そこにもうひとり、女と思しき姿がある。
「上手でしょ!」
タオロンの腕から降りたファンルゥが、自慢げに言った。
「ファンルゥとホンシュアだな」
「うん。あと、ママ!」
「……ああ」
雲の上の女のことだ。
ファンルゥが描いた母親は、どことなくホンシュアに似ていた。子供の落書きでは、詳細な顔つきなど分かるはずもないのに、タオロンはそう感じた。何故ならファンルゥは、仲良くしてくれたホンシュアを、顔も覚えていない母親に重ねていたから……。
高熱に倒れたホンシュアを、ファンルゥは〈蝿〉の目を盗んでは何度も見舞いに行った。
その都度、タオロンは連れ戻しに行ったのだが、あるとき、ファンルゥが寝てしまっていたことがあった。
『分かっていると思うけど、私はもう長くないわ』
唐突に、ホンシュアがタオロンに話しかけてきた。
『私が死んだと知ったら、ファンルゥは悲しむわ。だから、『天使の国』に帰ったのだと言ってほしいの。涼しい『天使の国』で、元気に暮らしている、って』
『……分かった』
『それから、もし、ルイフォンとメイシアに会うことがあったら、謝ってほしいの』
そう言って、彼女はタオロンに遺言を託した。伝えられる保証はなかったが、必死な思いを無碍に断ることなどできなかった。
『ねぇ……』
容態は落ち着いているように見えたが、彼女の息は炎を吐いているかのように熱かった。
苦しいなら無理して喋らないほうがよいだろうに、と思うと同時に、もう最期だから、なのだと分かってしまった。
『もしも……。もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったとしたら、あなたなら奥様を生き返らせたいと思う?』
とっさに反応できなかった。
感情の上では、勿論、生き返らせたいと思う。
ホンシュアは『奥様』と言ったが、正式に籍を入れたわけではない。そんなことすらしてやれなかった最愛の女と、今度こそ一緒になってファンルゥと三人で暮らしたい。
――そんな夢が頭をかすめる。
それは夢だ。夢であるべきだ。
けれど、〈蛇〉と呼ばれる〈悪魔〉でもあるらしい彼女が尋ねたということは、『〈七つの大罪〉には、死者を生き返らせる方法がある』ということだ。
『……ファンルゥに、母親と会わせてやりたい、とは思う。だが、怪しい技術はごめんだ』
『ああ。やっぱり、あなたはファンルゥのお父さんなのね。強くて、まっすぐだわ』
『……』
『でも『私』は、あなたみたいに強くなかった。だから、禁忌の領域に手を出した。それが『デヴァイン・シンフォニア計画』……』
ホンシュアが死んだあと、タオロンは言われた通りに、彼女は『天使の国』に帰ったとファンルゥに告げた。
嘘をつくことに抵抗もあったが、果たして彼に、幼い娘に真実を伝える勇気があったかどうか、自信はない。否、きっと途方に暮れていただろう。
そして、ファンルゥの中に、ひとつの『お話』が生まれた。
『ホンシュアは、天国のママに頼まれて、ファンルゥの様子を見に来た天使だった』
人間の国は、天使にとって熱くて辛いのに、ホンシュアはファンルゥのために来てくれた。とても優しい天使なのだ、と。
タオロンは空を見やり、白い雲の向こうの亡き女に告げる。
――ファンルゥのために、今は耐える。
額の赤いバンダナに、そっと触れる。それは、彼が無茶をしないための封印だ。
『猪突猛進に走り出しそうになったら、バンダナを結び直しながら、もう一度だけ考えてみて』
彼女はそう言って、彼にバンダナを巻いた。
『それでも、走るべきだと思ったら、走ったらいいわ』
今はまだ、そのときではないから。
だから、タオロンは雌伏の時を過ごすのだ――。
菖蒲の花が満開を迎えるころ、〈蝿〉は私兵たちを集めて告げた。
近く、この館の持ち主である摂政が、とある貴族を招いて会食を開く。だからその日は、出歩いたりせずに、割り当てられた部屋でおとなしくしているように、と。
摂政は、現状における国の最高権力者である。その彼と食事を共にする栄誉を賜る、貴族の名は――。
藤咲ハオリュウ。
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