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第1話 暗礁の日々(1)
季節は、初夏へと移ろうとしていた。
本格的な暑さがやってくる前の、心地のよいひととき。早起きになった朝陽に気づいて、箪笥の中身を薄手に替える、そんな頃合いである。
湿気の少ない爽やかな風が、窓から入ってきた。そこに時折、給餌をねだる雛鳥たちの喧騒が紛れ込む。今年もまた、屋敷の片隅にある倉庫に燕がやって来たのだ。
可愛らしく、微笑ましい風物詩である。しかし、雛たちの必死な形相を思い浮かべ、リュイセンは眉間に皺を寄せた。
あんな雛鳥ですら、自分にできることを懸命に為している。なのに自分は、何もできないでいる……。
気ばかりが急いていた。
リュイセンは朝の鍛錬を終えると、ルイフォンの仕事部屋に向かった。知らずのうちに大股になり、あっという間に到着する。いつもの通り、一応はノックをするものの、どうせ返事はないので無言で扉を開ける。
廊下から、たったの壁一枚。それだけの差で、冷気に満ちた別世界となった。
相も変わらず、四季も昼夜もない張り詰めたような空間に、空調の送風音と、カタカタというキーボードを叩く音だけが響いている。
「ルイフォン、俺に手伝えることはないか?」
このところ毎日、リュイセンはこの部屋を訪れては、同じことを問うていた。それに対する、ルイフォンの答えも一緒だ。
「あれば、こっちから言いに行っている」
振り返る気配もない猫背の上で、一本に編んだ髪と、その先に光る金の鈴がおとなしくじっとしていた。そっけないテノールは不機嫌だからではなく、頭が異次元に行っているからである。
「……すまんな」
また邪魔をしてしまっただけに過ぎないことを確認し、リュイセンは声を落とす。半袖から覗く逞しい上腕は、今日もまた宝の持ち腐れのようだった。
半月ほど前――。
斑目タオロンの協力で、〈蝿〉の潜伏先が判明した。
郊外にある王族所轄の庭園で、一般人は立入禁止の区域だという。
「隠れ家が見つかったのに、何故、突入しないんですか! 今こそ、総力をかけるべきです!」
当然のように、リュイセンは一族あげての総攻撃を仕掛けるつもりだった。
件の庭園は、王族の管理下の施設とはいえ、政治的にも文化的にも重要なものではない。
何代か前の王が療養のために作らせたもので、散策を楽しめるような広い菖蒲園の奥に、こぢんまりとした館がある。良くも悪くもそれだけであり、その王の死後はずっと放置されていた。
いわば、忘れられた別荘だ。故に、それほど警備が厳しいとは、リュイセンには思えなかったのだ。
「王族所轄地は、まずいって」
血気はやる兄貴分をルイフォンがたしなめた。
執務室での、いつもの会議の席である。
「警備をしている奴らは、国の看板を背負った『近衛隊』だ。斑目の別荘に潜入したときみたいに倒していったら、鷹刀は国を敵に回すことになるんだぜ?」
王族の所有物であるために、腐った警察隊ではなく、規律の厳しい近衛隊が鉄壁の守りを固めている。たとえ価値のない施設でも、凶賊に押し入られては面子にかけて黙っているわけにはいかないだろう。
手を出せば、王族は必ずなんらかの報復をしてくる。そして、その手段は武力であるとは限らない。何しろ、相手は国なのだ。
「……くっ」
リュイセンは唇を噛んだ。
鷹刀一族は、凶賊が相手なら容赦はしないが、一般人や法には逆らわない。
少し前のリュイセンなら、それでも『凶賊である鷹刀は、もとより国から疎まれている。ここで衝突を避けても同じだ』と言っただろう。
だが今は、一族の最終的な目的が『緩やかな解散』だと知っている。一族の者たちが、できるだけ穏便に外の世界に溶け込むためには、反社会的行為は悪手であると、彼もまた理解していた。
「鷹刀の仕業だと分からないようして、急襲するしかありません!」
我ながら情けない意見だと思いつつ、リュイセンは食い下がった。彼だって、卑怯な真似は好きではない。だが、それを曲げてでも〈蝿〉は捕らえるべきなのだ。
「強硬手段より、奴を誘い出す罠を仕掛けるほうが現実的だろう」
熱く訴えるリュイセンに、そんなことも思いつかないのか、と言わんばかりの氷の嘲笑が向けられた。リュイセンの父にして、次期総帥エルファンである。
はっとするものの、すぐに同意するのも癪で、リュイセンは押し黙った。だが、エルファンのもっともな提案は、歯切れの悪いミンウェイの声に却下された。
「すみません。それは難しそうです」
「どういうことだ?」
エルファンが眉根を寄せると、申し訳なさそうにミンウェイが説明する。
「情報屋トンツァイの報告によると、近衛隊員たちは『国宝級の科学者が、凶賊に狙われているから保護するように』と命じられているそうです。そのため、〈蝿〉が外を出歩くことは、まずあり得ないと思われます」
事実、現場に偵察に行った一族の者たちが二十四時間体制で監視をしていても、〈蝿〉の姿は確認できなかったという。
一方、〈蝿〉の部下となった斑目タオロンならば、何度も目撃されている。〈蝿〉が金で雇った私兵と思しき者たちと共に、庭園を出入りしているそうだ。故に、〈蝿〉がそこに潜伏していること自体は疑わなくてよいだろう。
「凶賊? 俺たちを警戒しているのか?」
リュイセンが険しい声を上げると、すかさずルイフォンが答えた。
「いや、鷹刀もそうかもしれないが、どちらかというと斑目だ」
「斑目?」
〈蝿〉は、斑目一族の食客だったはずだ。重宝されていると聞いていたのに、どういうことだと、リュイセンは訝しむ。
「〈蝿〉を贔屓にして、いろいろと融通を利かせていた斑目の総帥が、俺の『経済制裁』のタレコミで逮捕されたのは知っているだろ? で、次に総帥になった奴が『〈蝿〉こそが、一族を窮地に陥れた諸悪の根源だ』と言って、血祭りに上げようと躍起になって探しているらしい」
「なるほど」
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