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第1話 暗礁の日々(6)
「ルイフォン。私のことは心配しなくて大丈夫だから」
ミンウェイの背中が消えたあと、ふたりきりになった部屋でメイシアが囁いた。
抱きしめた手をルイフォンが離さなかったため、彼女はそのままおとなしく添い寝してくれた。彼女の吐息が、喉元に甘く掛かる。白いシーツに流れる、長い黒絹の髪が艶めかしい。
――なのに。こんなに近くに彼女はいるのに、ふとした瞬間に、心が鉛のように重くなる。彼女を何者かに奪われてしまう。そんな幻影に囚われる。
「私は外に出ないようにしているし、いつも誰かが一緒にいてくれる。危険なことなんて何もないの」
澄んだ声が、懸命に訴える。先ほどルイフォンが切羽詰った顔で、『守るから』と言ったのを受けてのことなのだろう。
メイシアには『〈蝿〉が捕まるまで、屋敷の敷地内から出ないように』と言ってある。
継母のお見舞いや、花嫁衣装を依頼しているユイランとの約束が、先送りになって可哀想なのだが、彼女は嫌な顔ひとつせずに従ってくれている。
しかし、メイシアが『デヴァイン・シンフォニア計画』の核なら、〈蝿〉を捕らえたところで、別の誰かに狙われないとも限らない。
すべての謎を解き明かすまで、彼女の身は脅かされ続けるのだ……。
「そんな顔しちゃ駄目」
黒曜石の瞳が、凛と覗き込んできた。睨まれたわけではないのに、むしろ愛おしげな眼差しなのに、ルイフォンの心に鋭く突き刺さる。
「すまん」
「ううん、謝らないで。ルイフォンが、そんな辛そうな顔をする必要はない、ってだけだから」
腕の中で、メイシアが首を振る。けれど、ルイフォンは深い溜め息を落とした。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったのは、セレイエだ。――セレイエが、お前を『核』に何かを企んでいる」
セレイエと、セレイエの〈影〉であるらしいホンシュアの弁から、断言できる。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、緻密で巧妙。読み解くことが難しい。まるで、セレイエの組んだコンピュータプログラムの命令そのものだ。
「俺の異父姉が、お前を巻き込んだ。〈影〉のホンシュアを差し向けて、お前に何かを仕掛け、ペンダントを渡して、その記憶を消した。……すまない」
「ルイフォン」
メイシアの指先が、彼の前髪をくしゃりと撫でる。
「私が『核』なら、ルイフォンも『核』。――『デヴァイン・シンフォニア計画』は、『私たちが出逢う』ように仕組まれた。私だけでも、あなただけでもないの」
「……」
「セレイエさんは、ルイフォンにも何かを仕掛けていた」
「……ああ」
四年前、母を亡くしたすぐあとに、異父姉はルイフォンを訪ねてきた。〈天使〉の羽を広げ、冷却剤が必要になるほどの何かをしたと、少女娼婦スーリンが証言している。
――セレイエは今、何処にいるのだろうか。
彼女が生粋の〈天使〉だと知ったあと、隠しごとばかりする年寄り連中を問い詰めてみれば、『自分のことを知りたいの』と言って、自ら〈七つの大罪〉に飛び込んでいったと教えられた。
一方、死んだ母によれば、異父姉は貴族と駆け落ちしたことになっている。
だが、セレイエの駆け落ち相手に該当しそうな人物は見つからなかった。ここ数年で姿を消した貴族の男といえば、老衰で死んだ爺さんばかりなのだ。そもそも、駆け落ちというのは嘘か、冗談か、あるいは喩えだったのかもしれない。
ただ――。
少なくとも、〈蝿〉が潜伏している庭園には『セレイエはいない』と断言できる。
何故なら、ルイフォンが難なく、監視カメラを支配下に置けたからだ。クラッキングの姉弟子であるセレイエが敵に回っていれば、そう簡単にはいかなかったはずだ。
「ルイフォン。私、セレイエさんは、ルイフォンに助けを求めているんだと思うの」
「……助け?」
思ってもみなかった発想に、ルイフォンは問い返す。
「うん。〈天使〉の力は、命を削るもの。セレイエさんは、自分自身を代償に何かをしようとしている。――必死なの。すがる思いで、ルイフォンに協力を求めた……。なんとなく、そう感じる」
「……でも、俺は……セレイエを許せない」
ちゃっかりしているくせに、どこか無慈悲になりきれない。本当は弱いセレイエ。
ルイフォンとメイシアを巡り逢わせ、駒として利用するつもりなら、〈影〉のホンシュアは『あなたが幸せになる道を選んで』なんて遺言を、タオロンに託すべきではなかった。
――身勝手で、卑怯だ。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、メイシアの父を死に追いやった。快方に向かっているものの継母は正気を失い、異母弟ハオリュウは足に一生残る傷を負った。
「あいつのせいで、メイシアの家族は滅茶苦茶になった……。俺は、お前を不幸に――」
そう言いかけた瞬間、ルイフォンの唇は柔らかなものでふさがれた。
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