3.月の妖精①

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3.月の妖精①

 旧歴二五〇〇年頃、北アメリカの西海岸で勃興したしたブラッドフォレスト家は、世界のあちこちで国家が崩壊していくのを横目に、惑星鉱山開発と宇宙貨物輸送を両輪莫大な大な富を生み出す企業として発展した。  タウ・ブラッドフォレスト本人は、旧歴三三〇〇年が新暦元年と定められた同じ年に、ブラッドフォレスト家の十五代目当主として生まれた。  異なる価値が衝突した「二百年紛争」と、誰が敵なのか不明のまま世界横行したした「闇の制裁戦争」によってアメリカ合衆国が崩壊し、アメリカ・アライアンス・チェーン(AAC)として北アメリカ全土で生き残った都市国家が再編成される過程において、タウ・ブラッドフォレストが率いるブラッドフォレスト社は、そのスポンサー的役割を担った。  しかし、ある日を境に、その状況は一変する。  この時代の一般的な富裕層と同様、タウ・ブラッドフォレストもまた、左右のこめかみにインプラントを埋め込み、脳と直結させて公共ネットワークに接続できる、いわゆる、インターフェイサーとなった。  だから、どこかの悪意ある者が、ブラッドフォレスト社を没落させるため、彼に気違いじみた妄想データを送り込んだ、といううわさが流れた。二十歳のときに父親が不慮の事故で亡くなり、巨大組織の頂点に立った彼が示した方向性は、それほど、突拍子もないものだった。 〈人類が環境破壊の限りを尽くした地球は、ガイアとしての意識に目覚め、ついに自らを浄化するホメオスタシスのプロセスを開始する。凄まじい力に人類は抗すべくもなく、地球上のあらゆる生命とともに、ただ、絶滅の奈落へ転げ落ちるしがない。その運命を回避する唯一の方法が、他の惑星への移住だ〉  彼が、どうやってこの考えに至ったのか、定かでない。インターフェイサーの彼が、遥かな未来から時を遡ってきた啓示を受け取った、という説がある。そうではなく、ガイアが発する警告を彼が理解したのだという説、純粋に彼が天才だったという意見、天才ではなく詐欺師だったという声だってある。  ともかく、彼は、人類の滅亡を予言し、太陽系外惑星への移住を主張した。そして、莫大な資金力を背景に、ふたつのプロジェクトを開始する。  そのひとつが、月面都市、カグヤ・シティの建設だ。  地球から見ると月面の左下側に位置する「湿りの海」と呼ばれる盆地の中央が、その建設場所に選ばれた。月の表面の中で最も低い高度になるその場所希少稀少鉱物とヘリウム3が最も豊富にあると事前調査で明らかになったからだ。  それまでも、旧暦時代の大国による月面基地建設や鉱物資源採掘は行われ、旧歴三〇〇〇年には大中華人民帝国が古代の文献研究の結果、月全体が自国の領土であることが判明したと宣言し、誰にも相手にされない騒動が起きた。  多くの級国家による鉱山が月面全体に点在するようになったが、ブラッドフォレスト社が開発したカグヤ・シティは、規模も機能も、既存の基地群を圧倒した。人工重力と大気精製システムでテラフォームされた直径三キロの巨大ドームの中央には、数万種の小動物や昆虫が住む森が造られ、ドームの壁面は一万人規模が暮らす都市となった。  太陽系外惑星のテラフォーム実験と説明されたが、その一部は地下鉱山に直結し、採取希少稀少鉱物やヘリウム3は精製して地球に輸出された。  工事は新暦二二年に始まり、八年の歳月をかけてカグヤ・シティは稼働を開始する。タウ・ブラッドフォレストは、本社をここに移し、自らも移住した。そして、そこを拠点に太陽系外惑星への移民事業を本格化させた。  月面に移住した彼が最初に取り組んだのは、移民事業に必要な様々なテクノロジーを開発する技術者集団を作ることだった。  突出した能力を持つようにDNAを改変した、いわゆるラボノイドの製造は、旧歴時代には倫理的な理由で厳しく制限されていたが、多くの国がひそかにかに研究を行っていた。それを、月面という遠く離れた土地で、自由に推進したのだ。  新暦三七年、ようやく誕生したひとり目は、ラボノイドを生み出すためのラボノイドだった。それが、後にカグヤ・シティの長官となるルーナ・ファータだ。 「月の妖精」とタウ・ブラッドフォレスト自身が名付けたルーナ・ファータは、彼のDNAをベースにしている。ということは、彼自身にもラボノイドを生み出す天才的な能力があったか、インターフェイサーとして未来の知性から彼女のレシピを受け取ることができたのか、いずれかだ。  それはさておき、オリジナルの彼が持っていたラボノイド制作の能力を最大限高めた彼女は、三歳のときには簡単な遺伝子組み換え実験で遊ぶようになった。成長するにつれて次々と素晴らしい遺伝子操作レシピを書き上げ、エスベルト、すなわち、「達人」の称号を与えるに相応しい特殊能力者を生み出した。  新暦五七年、二十歳になった彼女は、五十七歳のタウ・ブラッドフォレストの妻となり、新暦一二五年に彼が暗殺された後は、カグヤ・シティの施政長官に就任し、ブラッドフォレスト社の頂点に君臨する。  ただ、彼女には、生まれながらにして極めて残酷な「自由」が与えられた。 それは、空を飛ぶ自由だ。  彼女の背中には、古典的な宗教画に描かれる天使と同じ羽があった。その「自由」のせいで、彼女は好奇の目にさらされるのを恐れ、人前に出ることは滅多になかった。そんな彼女は、享楽にふける人々の姿を眺めることに執着し、ドームの壁面に築かれた都市に「退廃美館(たいはいびかん)」を建設した。  人を傷つけることを除き、人々の全ての欲望を解放するとした退廃美館は、やがて、カグヤ・シティ周辺に建造される多くの鉱山基地はもちろん、地球からも観光客が訪れる「史上最高の歓楽施設」となる。  そのルーナ・ファータに、アリスは招待されたのだった。 「お食事の開始は午後七時です。それまでに、エスベルト・ファームでメディコ・エスベルトの治療を受けていただきます」  スタッフの若い女性は事務的に告げ、こちらへどうぞ、とアリスを案内した。  そのドアを開けると、目の前には巨木の森が広がっている。 (血の森だ――)  カグヤ・シティを訪れ、退廃美館へ行くバスに乗ったとき、車窓から見たことがある。 「乗ってください」  二人乗りのカートを示された。 何の疑いもなくカートに乗り込み椅子に座った次の瞬間、チクリと首に痛みを感じた。  そして、目を覚ましたとき、アリスは全裸でゼリーの海に漂っていた。 (え? 何が起きたの?) 「目が覚めたようですね――」  心地よいバリトンボイスだ。  逆光に目が慣れるにしたがって、目の前にいる男の輪郭がクリアになっていく。 (なにこれ……超イケメン……)  それは、バーチャル・セックスに登場するバリッチが作る「アリス好み」を凌ぐイケメンぶりだ。 「手荒なことをして申し訳なかった」  銀色のボディ・スーツに逞しい肉体を包むイケメンは、アリスに寄り添い、優しく髪をなでる。 「ここはどこ?」 「エスベルト・ファームにある私の研究室だ。このファームには、世界最高峰の技術と知識をもつブラッドフォレスト社のエスベルトたちの研究室や実験室が集まっている。部外者には秘密のエリアでね。キミは腕の負傷がひどく、メディコ・エスベルトのぼくが治療する必要があったので、やむを得ず気絶させて連れてきた」 「つまり、あなたはお医者様?」 「ああ。しかし、ただの医者ではない。メディコ・エスベルトだ」 「それって?」 「史上最高の医者となるべくDNAを調整されたラボノイドだよ。あらゆる医学的知識を蓄積したデータベースにアクセスできるインターフェイサーでもある」  アリスは負傷した左腕を見た。傷口は閉じられたが、うっすらと皮膚が盛り上がっている。 「ところで、なんであたしは裸なんでしょう?」 「キミの戦いぶりを見て、ルーナ・ファータはキミというヒューマノイドに興味を持った。そこで、キミの肉体や思考に関するデータを取らせてもらった」  アリスはムッとした。 「それって、本人に無断でやっちゃいけないですよね!」 「お詫びに、ぼくはキミにご奉仕するよ」 「ご奉仕って?」 「肉体的、精神的な喜びをプレゼントする」  イケメンの顔がすっと近づき、アリスは反射的に目を閉じる。唇に柔らかな感触が伝わり、アリスの心は溶かされた。 (なんだろう……こんなに美味しいキス、初めてだ……)  ゼリーの海にただよいながら、アリスの肢体は奏でられた。 「お願い、きて――」  太く、逞しい欲望に貫かれ、アリスはエクスタシーを堪能した。 「よし、ここまでじゃ」 (え? なになになに?)  目を開けると、そこにイケメンの姿はなく、異型の者がいた。巨大なカニかクモを思わせる細長い手脚で、ボサボサの白髪に分厚い眼鏡をかけ、鼻髭を蓄え、顎が長い。 「これでセックスに関するデータも取れた」 (なんだと?)  アリスが寝かされているのはゼリーの海ではない。実験室の細いベッドに裸のままベルトで固定されていた。しかも、左右の乳首に電極が付けられ、リード線が伸びている。頭と両手足も同様で、その一本は、こともあろうに恥部に挿入されているではないか。 「これ、いくらなんでも酷過ぎません?」 「怒るな。もう終わったことじゃ」 「勝手だなあ」 「この先、どんな怪我だろうが病気だろうが、ここへ来れば治してやれるぞ」 「それはどうも」  釈然としない。 「あたしのデータで何をするつもり?」 「おそらく――」  メディコ・エスベルトはヌッと顔を突き出した。 「ルーナ・ファータは、あんたのDNAに危険を感じたのだろう」 「なんで?」 「今、大国は、ラボノイド戦士の開発競争をしている。アンドロイドやロボットは製造コストが高い。それに比べてラボノイド戦士は、一度最適なDNAを作れば簡単にコピーを作れる。人工子宮を使って、優秀な戦士を安価で大量に生み出せるわけだ」 「あたしのDNAが悪用されるってこと?」 「現実のものとして、あんたは存在している。ということは、この世の中には、あんたのDNAとよく似た存在がいる、ということだ」 「だからといって……」 「あらかじめ、あんたのDNAがどんな肉体を作るのか把握しておけば、そのようなラボノイド兵士が登場したとしても、あらかじめ対処法を研究できるじゃろ?」 「今イチ、説得力に欠けるなあ。そもそも、セックスに関するデータなんて関係ないじゃん」 「あれは、ワシの趣味じゃ」  ニヤリと笑う。 「やっぱ、変態だったか!」 「いや、逆じゃ。メディコ・エスベルトたるワシには、性欲というものがない」 「は?」 「そのようにDNAを調整されておる」 (なんか、可愛そう……) 「だから、あんたの裸を見ても何も感じない」 「じゃあ、なんでセックスのデータを?」 「人間の体が、セックスによってどのような反応をするのか、医学的なデータを蓄積しておる」 「何のために?」 「だから、趣味のためだ」  やはり、釈然としない。 「一応、伝えておこう。あんたの肉体は極めて健康」 「どうも」 「危機における判断能力、具体的に対処する戦闘能力はピカイチ」 「どうも」 「性欲指数は120」 「は?」 「性欲のために犯罪に走るヒューマノイドの性欲指数は100だ」 「え……」 「それを遙かに凌いでおる」 「それって……」 「かなりヤバい女、ということになる」 「……どうも」 「頭の中に淫乱の虫を飼っているようなものだ 「うっ」  急に睡魔が襲ってきた。 「そろそろ、夕食会に行く時間じゃな」 「そうなんですね……」  アリスは大あくびをした。 「さすがに裸ではまずい。衣服を用意させましょう」 「お願い……します……」 「お迎えに上がりました」  ここへ連れてきた若い女性スタッフが現れ、その姿が白い霧の中へ溶けていった。 (つづく)
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