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可愛い鬼
やがて孤高の鬼天使こと牧田さんは、回っていない営業二課に降臨し、怒涛の指示を飛ばし、死ぬほど俺を働かせた。初対面で牧田さんの秘密に触れてしまった罰なのかと思ったが、その顔はいつでも穏やかで美しかった。
それまで全くと言うほど実物の牧田さんと接点がなかったのに、あの日以来、毎日のように俺たちは顔を合わせるようになり、ランチ、飲み、と一緒に食事をする回数もどんどん増えていった。
「最近、あの孤高の鬼天使と随分仲良しね、陽平君。すっかり気に入られちゃってるじゃん」
2個上の遠山さんが、椅子を寄せて話しかけてきた。
「んん、まぁ、お互い中谷先輩と関わりがあるから、何となく」
「中谷さんか……中谷さんが入社したての頃は、牧田さんがずっと教育係でついてて、兄弟みたいに仲が良かったらしいわよ」
「へぇん。え、じゃ、牧田さんて」
「元は営業のスーパーエースだったのよ。中谷さんが結婚することになった頃に、企画に異動になったの。君が入社する前の話」
「そうなんだ……」
「陽平君、大丈夫? あの人、めっちゃ綺麗だからさ……」
遠山さんが、俺の耳元に顔を寄せてひそりと言った。
「ゲイって噂。陽平くん、牧田さんのお稚児さん化してる」
ゲイ……その響きは、俺の心を抉った。
遠山さんにそんなつもりはないとしても、ゲイという一つの性嗜好を、何か汚らわしい事のように言われた気がしたからだろう。
「今日も確か一緒に取締役会のプレゼンだよね、牧田さんのご指名で」
「ええ、まぁ……営業の視点で考えを述べるように言われてて」
「それ、口実って言うんじゃない? 」
この人、こんなに噂好きな人だったかな……これだから、仕事の仕方が悪いって怒られるんだよな、牧田さんに。
「俺、もう行きます」
遠山さんを振り切るように、俺はカバンと上着を手に、席を立った。
汐留の本社ビルを目指し、手っ取り早いルートとして銀座の中央通りを選んだ。一丁目の駅を過ぎてすぐ、ティファニーの本店がある。
一度もお世話になった事はない。
いや、一度だけ、珍しく半年以上続いた彼女が、ここのリングを欲しいと言ったことがある。二十代のサラリーマンがおいそれと買えるわけがないのに、当然のようにリングを見初めた彼女の横顔を見て、元々それほど盛り上がっていなかった恋心なるものが、あっさりと俺の中から消え失せた。
あれ以来、何やら面倒で、誰とも深く付き合った事はなかった。
と、ショーウインドーの前で立ち止まった俺の横に、同じように案じ顔でリングを覗き込む男がいた。
「牧田さん」
牧田さんだった。
苦々しい顔をして、メンズリングを見ている。ああ、確かここは、メンズウェディングリングなんかも扱っていて、ゲイカップルも臆することなく買えると聞いたことがある。
「牧田さん」
やっと俺に気づいて顔を上げた牧田さんの目には、涙があった。
ドキリ、俺の心臓が凄い音を立てて飛び跳ねた。
年上なのに、とても儚くて、寂し気で、つい抱きしめてしまいそうな、そんな可愛いほどの素の表情だった。
「え……あ、陽平か」
しかしそれも一瞬で、いつもの、腹の底を読ませない鋼鉄の笑顔に戻った。
むしろ、こちらの動揺を見透かされなくて良かったと、俺も作り笑顔を向けた。
「おまえもこのルートだったんだ。じゃ、行こう」
孤高の鬼天使は、そう言って何もなかったかのようにコートを翻した。
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