その人

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その人

 俺が所属している営業2課は、エースである主任・中谷(なかや)先輩が育休を取って長期休暇に入った瞬間から、嵐の様相を呈していた。  連日の残業、新人達のミスの尻拭い……これまで中谷先輩が一人でこなしてきた仕事が、一気に俺達二十代後半組にのしかかってきた。 「腹減ったぁ……」  とはいえ、ダッシュで定食屋に駆け込みたい俺を、目の前のエレベーターは尚も会社に縛りつけようと、中々迎えにきてくれない。  ボタンを押したまま崩れ落ちそうになった俺は、両肩を掴まれた。 「大丈夫か」  振り向くと、ベージュのトレンチコートを着た長身の男が、心配そうに俺を見下ろしていた。 「す、すみません、腹減って……」 「この時間まで残業じゃキツかっただろう。俺もこれからだから、一緒にどうだ」  とても綺麗な顔立ちだなぁと見とれていると、彼は俺が落としたカバンを拾い、俺の手に持たせてくれた。 「あ、別にナンパじゃないぞ」 「な、ナンパって」 「だって、不安に慄く乙女のような顔をしてる」  彼はそう言って柔和に笑った。冗談なのか、本気なのか、まるで本心が読めない感じの、整いすぎた笑顔。 「あのぅ……確か、中谷先輩の……」 「ああ。中谷先輩の先輩、牧田だ」 「え、あ、すんません、俺、営業二課の浜崎陽平(はまざきようへい)です」  俺は途端に直立不動の体勢をとり、頭を下げた。  牧田、ということは、戦略企画室の室長、牧田航介(まきたこうすけ)さん、だ。孤高の鬼天使、と呼ばれる伝説の人。彼の言う通りに動けば、ウチの会長だって首を縦に振ると言う企画の鬼。営業二課なんざ、この人にとっては働きアリのようなものだ。 「ほお、俺の名前くらいは知ってたか」 「知ってたも何も……」 「俺も君の事、中谷から聞いてた、真っ直ぐで熱くて面白いのがいるって」  チーン、と間抜けな音を響かせて、漸くエレベーターが開いた。  牧田さんは、ガッツリ食いたい俺の希望を入れて、定食屋に付き合ってくれた。自分はビールに唐揚げとサラダを頼み、チビチビとやっていた。 「牧田さん、それだけですか」 「俺、もう35だよ。君とじゃ新陳代謝が違うんだよ」 「うそ……俺より9つも上には見えないっすよ」 「そっか、まだ26か、道理で良い食いっぷりなわけだ」  牧田さんは俺と変わらない長身なのに、食が細そうだ。鬼は人を食ってるから飯食わないとか。 「しかし二課はきつそうだな」 「何せ中谷先輩が育休とっちゃったから、そのせいで……」 「そのせい? 」  え……俺は思わず箸を置いた。牧田さんの目尻が吊り上がったように見えたからだ。 「育休は会社が定めた事だ。第一、自分にとって唯一無二の存在の為に側で支えたいと思うことは、悪いことではない。回らないのは、留守番組の仕事の仕方に問題がある」 「はぁ……すみません」  ぎこちなく頭を下げると、牧田さんはハッとしたように顔をほころばせた。 「すまんすまん、突然定食屋に拉致してきて説教じゃ、割に合わんよな」 「いえ……牧田さんが正しいです。中谷さん、結婚して5年目でようやく授かったんですよね。俺、育休前に先輩に言ったんすよ、愛する人のために前例を打ち破れるって凄いって……」 「そうだな。あいつは凄い。中谷はさ……中谷は、凄いやつなんだよ」  中谷……そう呼ぶ牧田さんの声が、どこか甘さを持っているように聞こえて、俺はドキリとした。 「中谷さんとは、その……」 「ああ、あいつは同じ大学で同じゼミの2つ後輩」 「へぇ、そうだったんですね」 「浜崎君は」 「新卒の時、教育担当で俺について下さったのが中谷さんです。俺、ホント使えないやつだったんすけど、根気よく、諦めずに指導してくださって、そのまま、俺を今の課に引き上げて下さって……その時に、主任って呼ぶとジジくさいから、先輩て呼べって言われて」 「いい奴だろ」 「はい、尊敬してます。仕事もできるし、男前だし、すんごい綺麗な奥さんと結婚したし……完璧っす」 「だよな。俺も……愛してた」  ガシャーン! 派手な音を立てて、俺はビールジョッキをひっくり返してしまった。幸い中身が殆どなかったから被害は最小限で済んだ。 「牧田さん……」 「いや、おまえが中谷中谷って、キラキラした目で連呼するから……」 「俺は別に」  いたたまれない……そんな顔をして、牧田さんは財布から万札を出してテーブルに叩くように置くと、荷物を抱えて出て行ってしまった。 「これ、多すぎ……」  俺は急いで会計を済ませ、釣り銭を握りしめて外に駆け出した。 「牧田さん」  牧田さんは、ビル風に煽られても背を丸める事無く、誰にも隙を見せない頑なさを後ろ姿に湛えている。  絵になる、けど、正に孤高……。 「牧田さん」  もう一度、声を張り上げると、まるで踊りのようなターンをして、牧田さんが振り向いた。 「おつり。多過ぎなんで」  すると、拍子抜けと言わんばかりに、牧田さんが息を吐いてポリポリと頬を掻いた。 「いいよ、とっとけ。おまえをこっちだと誤解した詫びだ」 「こっちって……今どきそんな線引き、あるんすかね」 「……俺の事、気持ち悪いだろ」 「いや、むしろ可愛い、とか思っちゃったんすよね……そんな背中見たら、放っとけないし……次はいつにします?」 「は?」 「メシ。いつ、食いますか」  ダメだ、俺、完全におかしくなってる、牧田さんのあの苦笑……かと思いきや、牧田さんは、目尻にシワが出来るほど、クシャッと笑ってくれた。 「じゃぁ……明日。金曜だから、遅くなっても大丈夫だろ」 「爆速で残業仕上げます」  無理すんな、ちょっと小首を傾げるようにしてそう言い残し、牧田さんはまたあの凜とした後姿を見せて去っていった。  こんな風に、新しい関係が始まるなんて……手の中には確かに、つり銭の硬貨がジャラジャラと音を立てていた。  
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