走り出す

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走り出す

 バン!と勢いよくドアから飛び出した俺を外気が包み込み、瞬間、体から湯気が立ち上った。まだ鳴り続けている携帯の画面に表示されている名は『須賀希美』。俺は震える指ですぐさま通話ボタンを押した。 『やっほ~♪あなたの希美ちゃんですよ〜』  いつもと変わらぬ、嫁ののほほんとした話し方に感極まって、俺はすぐにまともな言葉を発する事ができなかった。 「のっ、ののののの希美ー!!」 『どうしたの⁉ 今大丈夫? てか、あんた大丈夫⁉』 「大丈夫だ。いや、それどころか助かった。ものすご〜く助かった!ありがとうっ!!」 『・・・そう?いや特に用はないんだけどさ、急に遅くなるってメールだったから、何かあったのかなーって心配になって』 「うん。夜勤者が大変そうだったから応援に出てたんだ。遅くとも十時までには帰るよ。だけど、疲れてたら先に寝てくれ。無理はするなよ?今は大事な身体なんだからな?」  そう言って通話を切って、俺は再び『カフェ・ラビリンス』に向き直った。まだ浅川さんに言いたい事があるのだ。  建物の木材部分はあちこち変色し、朽ち始めている。割れた窓からは垂れ下がった蜘蛛の巣、床のゴミや空き缶、壁一面の落書きが覗く。足にカツンと当たるのは、叩き壊され草叢の中に埋もれていた看板。これこそが現在の本当のラビリンスの姿だった。 「浅川さん、あんたは孤独な人だったんだね、きっと・・・」  俺は姿は見えないが今もそこに居るであろう店主に語りかけた。 「だけどあんたの言うことは間違ってるよ、たぶん。確かに人間の生命なんてちっぽけなものかもしれない。でも生命は繋ぐことができるんだ。親から子へ、子から孫へ。そうやって受け継いだ俺達の生命もまた、簡単に手放していいものではないはずだ」  うーん、なんか違うな・・・俺はこんな御大層なことを言いたいんじゃない。だいたい子供を持つかなんて人それぞれだし、俺自身まだ、親になった実感なんて湧かないしな。  ここで一つ大きなくしゃみをした。身を切るような寒さに、体が勝手に足踏みをはじめている。俺は少し考えて、また顔を上げた。 「つまりだ!心の中に大切な人、会いたい人がいる限り、人は簡単には死ねない!俺の言いたいのはそういうことさ!」  そうビシッと決めて、浅川さんの幻に別れを告げた。 「さて、今日も無事故で帰局するか」  駐車場でエンジンを始動し、ヘルメットを着ける俺を、夜空に君臨する大きな月が照らしている。ふと思った。何人たりとも到達できないあの空の高みから、月はどれだけ多くのものを見続けてきたのだろう?喜び、悲しみ、怒りや憎しみ・・・。  排気音を響かせながら、バイクが夜に向かって走り出した。途端に刺すような冷気が顔にぶつかってくる。それはもう鼻の奥がズキズキと痛み、目を開けてさえいられないほどだ。でもその痛みや辛さは、俺が現実を生きていることの、何より確かな証なのだった。  
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