冷たい夜

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冷たい夜

 郵便配達員だからといって、勤務する土地の全てを把握しているとは限らない。時には一枚の地図を頼りに、見ず知らずの場所まで配達に行くことだってある。その夜の俺が正にそんな状況だった。  ビュウと木々を揺らしながら、寒風がいくつも追い抜いていく。山中にたった二軒しかない限界集落まで夕方便の速達を届けた帰り道。俺は麓までうねうねと続く険しい九十九折(つづらおり)の坂道を、路面に細心の注意をはらいながらバイクで下っていた。  この土地では一度降った雪は、春までもう消える事はない。路肩に積まれた雪の塊からは、昼にジワリと水分が流れ出し、日没と同時に路面で凍結を始めるのだ。俺達はそれを『闇氷』と呼んで怖れる。この急な下り坂でそれを踏めば、不安定なバイクは派手に転倒し、運悪ければそのまま崖下まで落下する危険もあった。  十五分後。なんとか広い県道まで降りてくることができた。ここからはしばらく平坦な一直線の道が続くはずだ。でも今度は寒さとの戦いだった。  バイクの走行スピードが上がると、防寒着や手袋の小さな隙間からも冷たい空気がビュンビュンと侵入してきて、 容赦なく体温を奪っていく。それが長時間続くと最悪の場合、低体温症で倒れてしまう事もあるのだ。  せめて少しでも体内の熱喪失を防ぐためには、走行中はなるべく冷たい空気を大きく吸いこまないのがコツだ。だから呼吸は小さく、早く、小さく、早く。  赤信号が点滅している停止線で止まった時、ようやく俺は深く息を吸ってブワッと吐き出した。それはまるで小さな雲のように、みるみる空へと上って行き、 だんだんと希薄になって消えていく。それを見送りながら、ああ地上の熱はこんなふうに空に吸い取られていくのだな、とふと思った。  見上げた夜空の先にはひときわ大きな満月が浮かんでいる。そのおかげで周囲は明るく照らされてはいたけれど、この場所では逆に物寂しさが倍増するばかりだ。  もとは人家だったであろう雑草だらけの空き地、放棄された田畑、一定間隔をおいて点在する土砂堆積場や何かの資材置場・・・、さっきからずっと同じような景色が続いていて、すれちがう車は一台もなかった。  見ず知らずの寂しい土地で、凍てつく夜にたった一人きり、という心細さがおかしな想像心をかきたてる。もしかしたら俺は既に異世界に迷い込んでしまっていて、この同じ道を永遠に走り続ける運命なのではないだろうか・・・?とか。  でもその心配は杞憂に終わった。やがて道の前方に、来る時に目印としていた一軒の廃屋の輪郭が見えてきたのだ。それを通過したら次の交差点を左折だ。そうすれば二十分後にはもう、人が大勢いる暖かな局舎に入ることができるのだ。そう思って安堵した時、ある異変に気付いた。 「あれ、灯りが点いているぞ?おかしいな。あそこは廃屋だったはずだが・・・」
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