人気テノール歌手の義経くん、人を殺す

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「家に死体があって、困っています」  ときは午前一時である。スマートフォンを耳にあてた壇ノ浦は、またこの子は変なことを言い出した、と思った。  けして眠くはなかった。けれど寝たかった。冬が少しずつ近づく秋口だから、少し寒く感じる。 「義経くん、あのね……もう明日というか今日ね、本番だからね」  電話の相手は義田経宏という。義経が名前に隠れているのでみんなよしつねくんと呼ぶ。  壇ノ浦は名字が壇ノ浦なので、ちょっと物騒な雰囲気がある。平家の呪い……みたいな。でも、そこに義経くんがいれば血なまぐさい戦いというよりは源平合戦!のような祭りっぽいヒーローショーみが増す。いるのは壇ノ浦と義経で、そこに平氏はいないのだが。  義経くんはテノール歌手だ。  明日、というかもはや今日、大事な本番を控えている。  オペラで採算はとれない、ギャラが出ない、むしろ演者から金を取ると言われるこの国日本において、きちんと興行として行い、大きなホールを借り、演者にまっとうな金を渡す、稀有なオペラ公演だ。  演目はトスカ、しかもプロのオケピが付く。指揮者もいる!衣装だって自費とか自前じゃないし。  まさにちゃんとしている。その代わりに、絶対失敗できない。タイトルロールはソプラノだが、テノールは義経くんで、義経くんの声と歌の力と爆発的な人気によってこのオペラは成立する。意味不明なほどの人気。  みんなそんなにオペラ好きだっけ?え、義経くんのことが好きなの?まあいいけど……。  壇ノ浦はバリトンなので悪役なのだが、ソプラノとテノールに続いてプログラムに三番目に書かれる役だ。そんないい役をもらえてうれしい。 「義経くん呑んでる?」  もちろん、呑んでるわけない。  この子でも緊張したり、ナイーブになったりすることがあるんだ、と壇ノ浦は感動に似た驚きを覚えた。義経くんはテノールにしてはすらっとしたタイプなのだが、しかし彼はその実強靭だ。  やろうと思えば、きっとワーグナーも歌い切れるようになる。そんなバケモノなのだ。そんな日本人他にいるか?……もしいるとしても、この子ほどの声をしていないだろう。  義経くんは二十七だ。若い。人間としてはまあ大人の年齢だけれど、声楽の歌手としてはかなり若い。壇ノ浦は歳が離れているので、義経くんのことを、"この子"とか言ってしまう。  きらきらきらっ、と歌うと、彼はいかにも貴公子然としている。そのまっすぐ伸びる竹のような瑞々しい声を、みんなが好きになった。  しかし壇ノ浦は、ふとしたときに現れる、彼の声が持つ幽玄でほの暗い響きが好きで、あと十年か、十五年たったら彼のこういうところがもっと発揮されるようになるだろう、と考えている。  彼のうえを年月が流れ、彼の身体という殻の中にある、彼の声が成熟し。若々しさに頼ることができなくなったとき、否応なくあらわれるはずの個性を、壇ノ浦は楽しみにしている。  そんな青年が、本番の前夜、こんな時間にへんな電話をかけてくるのだ。緊張して眠れなくて、誰かと話したくなって。壇ノ浦がその相手に選ばれたということが、壇ノ浦自身照れくさくもあり、歌手特有の孤独の感触を感じることもできた。  自分以外に自分はいない。誰に電話をしたって仕方がない。それでも強いて言えば電話を掛ける相手は壇ノ浦なのだ。 「死体が家にあって」 「したい、したいって何かな」 「体のことですが?死んだ人間の」  やっぱちょっとこの子変わってんだよな。  壇ノ浦は首を傾げた。 「いや〜、大丈夫?そのさ、明日は気楽にやればいいんだからね」  嘘を言った。  気楽にやればいいというのは嘘だ。オペラは多くの人間が関わる大きな仕事なので、主役が気楽にやればいいというのは誰にとっても嘘になる。  でも、壇ノ浦は義経くんよりずっと歳上だから、一応はこういうことも言うべき立場にある。 「そっち行こうか」  義経くんが電話を切らないので、やがて壇ノ浦は観念して、そう言った。壇ノ浦は結婚しているが、配偶者と別居しているため、家族に見咎められることもなく家を出た。
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