人気テノール歌手の義経くん、人を殺す

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 義経くんの家に着き、リビングへ招かれた壇ノ浦は絶句していた。義経くんは容赦なく、え、連絡してありましたよね、みたいな顔をして死体の方を指差す。 「言ってありましたよね?」  義経くんは常日頃から滑舌がいい。ちょっとの音量でも何を言っているかわかる、そんな子音のつくり方をする。  喋っても、どの言語で歌っても、彼のいうことはしっかりと耳殻をつたって内耳を通り、脳まで撫で上げる。すてきな喋り方だし、すてきな声だ。すてきな声帯、すてきな副鼻腔。きっとCTを撮ったら、すてきな頭蓋骨を見ることができるだろう。  壇ノ浦は転がっている死体と、義経くんの人類ウケする顔を見比べた。頭蓋骨や副鼻腔が歌うのに適していて美しいだけではなく、その表面もすぐれているのだ。ただし、人類ウケっていっても、優しそうとか人が良さそうとか、営業で成績を上げそうとか、そういうのじゃない。  すきとかきらいではなく、皆んな惹かれる。ちょっと怖いみたいな感じに近い。でも化粧をすると明るい、悩み事のない王子様みたいにもなれる。なんだかちょっと彼の声の質にも似ている。  リビングは暑くも寒くもなく、おまけに歌手の喉を守るため加湿器が働いていて適湿だった。  それなのに暑いようにも寒いようにも、湿っているようにも、からからに乾いているようにも、壇ノ浦には感じられた。死体のせいかもしれないし、義経くんの怖い感じがするほどの顔立ちのせいかもしれない。  義経くんはふっと笑うと、こう言う。 「こういうときってどうしてます、先輩」  壇ノ浦は、義経くんからこれまで先輩と呼ばれたことはない。さも、長く声楽界にいればこんなことも二回か三回、あるんでしょう?と言いたげに壇ノ浦を見つめる義経くんだ。  ねえよ。こんなときだけ先輩っていうな。見つめるな。  壇ノ浦はこわごわ、死体と思しき物体に近づいてそれを見てみた。死体じゃないかもしれない。生きているかもしれないし、ただの寝ている人間なのかもしれない。  オペラに人死には付き物だ──もちろん劇中の出来事として。トスカでは、トスカも、義経くんの役も、壇ノ浦の役も死んで終わりだ。悲劇のオペラは、死なないと終われない。  壇ノ浦は、死んだ人だということにして舞台上に人が横たわっていたりだとか、美術さんが死体っぽい形のものに布をかぶせた道具を用意していたりとか、そういうのは見慣れていた。  実物はやっぱり迫力が違う!と、大歌手に会ったときのように張り切って言いたいところだが、実際に死んだ人間を見てみるとそうでもなかった。  葬式ではない空間で死体、というのがむしろアートでシュールだ。ショートコントの気配がある。  ショートコント、”殺人”……。 「弁慶」 「お知り合いでしたか」 「いいや」  壇ノ浦は死体が弁慶っぽいと思った。大柄の男なのだ。いかつい血まみれスキンヘッドなのだ。 「…………」  壇ノ浦は我に返り、ふと黙ってしまった。  ここは義経くんの家だ。義経くんが居た。弁慶似の男が倒れている。義経くん以外には、誰も居なかった。  血が出ている、たぶん頭の傷が致命傷……なんじゃないか。凶器はない。致命傷とか凶器って言葉、バリトン歌手やってて使うことあるんだ。  とにかく凶器はない。凶器がないってことは隠してるってことかも。犯人が。どこかにいるはずの殺人犯が。  この状況だと、怪しい人が一人いる。殺人犯候補ってこと。それは、まさに。 「お茶でも淹れたほうがいいでしょうか。カフェインは気にされますか?」 「いやいやいや全然全然全然いいからいいからもう遅いし」  義経くんだ。義経くんがやった。その可能性が高い。  だってそれ以外に何?  壇ノ浦は、義経くんに妬みや嫉みの感情はない。  男、特に声楽の嫉妬はどの楽器より烈しい、とかいうけれど、歳が離れすぎているうえ、声域も違う。声域が違えば役を奪い合わないし、露骨に比べられることもない。お互いをお互いが引き立てあってこそ、だ。  それに義経くんを妬むなんてことは、ちょっと身の程知らず。義経くんに嫉妬する奴、自分にかなり自信があるじゃないか、と思う。  だから壇ノ浦は、義経くんをはなから疑いたいわけではない。仕事仲間だ。それでもやはり、それ以外には考えられない。  これは、義経くんがやった。  もしくは弁慶は不法侵入者で、勝手に頭を打ちつけて死んだのか。打ちつけた石みたいなのはどこいったの?  義経くんはトロフィーを何個も持っているはずだ。コンクールだとかコンペで勝ったときにもらうやつ。ちょうどあれなんかは、凶器にふさわしいんじゃないか。持ちやすそうだ。殴りやすそうだ。  やっぱりやったの。君が?    でもそれを壇ノ浦は、口に出して聞くことができなかった。  義経くんが頷いて。あるいは、はい、自分がやりました、とあのきれいな発音で口にして。  その言葉が耳殻をつたって内耳を通り、脳を撫でていき、そうしたら壇ノ浦は当然ながら自首をすすめなければならなくなる。  そうしたらオペラの本番はどうなるんだ。この子がいま、捕まったら? 「どうにかしないと」  そう言ったのは壇ノ浦だった。義経くんは黙っていた。
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