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弁慶を殺っちゃう義経っていうのは、新しいよね。
どうしてそんなことになっちゃうのかな?主従愛はどこいったのかな。弁慶側の執着が重すぎると、そういうことにもなっちゃうの?
壇ノ浦は車を飛ばしながら、そんなことを思っている。
死んだ弁慶は重かった。苦労して二人で後部座席に乗せた。気持ち悪かったから、義経くんの家にあったシーツで包んだ。
汁とか出るかもと思って、ゴミ袋をざっと切って車のシートに貼ったけど、汁が隙間から貫通してそうでいやだ。
汁って死んでどれくらいで出るんですか?死体ってどう包んだら正解ですか?そういうの、どの先生も教えてくれなかったな。
「義経くんって細くて偉いよね」
「そういうことは言わないほうがいいと思いますよ!」
「あ、ごめん」
義経くんはすらりとしたタイプなので、弁慶に打ち勝つことができるのかと疑問を持った壇ノ浦はへんな質問をしてしまい、ちゃんと注意された。
テノールに限らず声楽は身体がしっかりしているほうがいい、とされているので、とにかく太っても無罪みたいなところがある。
太っても無罪とか言うとまた壇ノ浦は義経くんに注意されるか、きっぱり無視されるだろう。
「ステロイドをやったら僕だって浮腫むでしょう」
「やめたほうがいいよ」
義経くんは、ふっと壇ノ浦のことを見たあと、顔を無言で正面に戻した。知っていたのかな、と壇ノ浦は思った。
夏に調子を崩して、どうしても喉が戻らなくて、そのとき別の本番があってステロイドを喉に打った。そのほかにも吸入で吸ったり、違う薬を使ったりもした。それを壇ノ浦は誰にも、特に公演でいっしょに舞台に立つ人たちには言わなかった。
年齢とともに調子が戻るのが遅くなっていて、声自体の質も違ってきていて、悪いこともあれば良いこともある。人生と同じだ。不思議なことに、先のこと、自分のことや業界のことを考えることが増えた。義経くんのように若かったときはもっと考えなしの馬鹿だったし、壇ノ浦だって強かった。
「昔のテナーに太った人が多いっていうのは、そういうことかもしれないですし」
「もう時代が違うよ」
昔のテノール歌手は職業寿命が短かった。壇ノ浦は、義経くんにはそうなってほしくない。
義経くんみたいな人は、日本にはあまりいなかったかもしれないけれど、海外には昔の時代からいた。そして、そんな昔のテノールたちは短い時間で次々に使い潰されていった。
オーケストラに負けない豊かな声量をもとめられる。Hi-Cの出てくる難しい曲たち、ハードな演目とスケジュール。素晴らしい声だと持て囃されても、数年で使い物にならなくなったテノールが、歴史上に何人いたことか。
『くちびるから出ていった声は、二度と戻らない』──その言葉は、口に気をつけなさいとか、人を傷つけるのはよしなさいという意味だけをもっているわけではない。
歌うべきなのか、いま歌わないべきなのか、演るべきなのか、自分に合っているのか。無理するのか、しないのか。どうすべきか、よく考えて歌う機会を選びなさいということだ。
何をすべきか、よく考えること。
考えているさ──と、壇ノ浦は思う。今このときだって。
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