0人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
そうこうしているうちに目的地に着いてしまった。
壇ノ浦の親が使って、壇ノ浦自身はほぼ放置していた、長野県の別荘の裏手にある山だ。壇ノ浦は、この建物も土地もいらない、と思っていた。海の方がいいし、長野県といっても軽井沢とかではなくて微妙な長野なのでちょっとなあ、と思っていた。親は観光客を嫌ってこんなところを避暑地としていたらしい。
でも役に立った。思わぬ形で。
真夜中で、道が空いていたので、二時間ほどでついた。
穴を掘るというのは、なかなかに重労働だ。とくに、オペラ歌手にやらせるようなもんじゃない。
持ってきたシャベルで、とにかく、ざく、ざく、掘っていく。弁慶を埋めるための穴だ。まるでファウストの原作みたいだった。
息が上がり、汗が伝う。空気は冷えて、息が白く見えた。
なんで俺がこんなこと……。
壇ノ浦は思った。こんなことしてやる理由はない。そもそも、やるとしても、とりあえず公演後にしたらいいじゃないか。穴を掘って徹夜のあと本番なんて本当に厳しい。
弁慶のことは義経くんの家に置いておけばいい。一日くらいどうにかなるだろう。
え、腐る?やっぱ汁とか出ちゃうのかな?
けれど、この公演を成功させたいだけではなかったのだ、と壇ノ浦は自分の考えに気づく。
義経くんに自首してほしくない。思い詰めて自殺なんてされたら、オペラなんて所詮絵空事に思えるくらいの大惨事になってしまう。
世の中には、三億円のヴァイオリンがある。一方で声は、何億出したって買えない。三億円積んだって、義経くんの声が自分の喉に宿るわけじゃない。お前のヒレのかわりに足をやるから、歌声をよこしなさいというわけにもいかない。
義経くんには、なれない。
義経くんは、なかなか生まれないのだ。
それなら、弁慶を埋めてしまう他にない。義経くんが台無しになってしまう前に。
「俺のせいだよ──俺のせい」
「違うと思います」
壇ノ浦は息を切らしているのに、義経くんは涼しい顔でいる。
あたりは真っ暗で、持ってきたライトが時折義経くんのすらりとした輪郭を照らす。雪が降っていなくてよかった。
「もちろん弁慶は違うよ。これは俺のせいじゃない──けど──俺のせいだ」
「違いますよ」
「オペラが採算取れないのも、はあ──この業界がこんななのも──俺のせいなんだよ」
壇ノ浦は、力を込めてシャベルをふるうせいで、変なリズムで喋る。
「なんですか、いきなり」
義経くんが言う。たしかに人を埋めているときの会話として相応しくないかもしれないが、まさに人を埋めているときにしたらいい発言、なんて思いつかないのだ。
シャベルで土を掘る作業は日常的にしないので、どこか脳の中の回路がおかしな具合に繋がったのかもしれない。
「この国が──芸術をサポートしようとしないのも」
「あなたのせいじゃないですよ、壇ノ浦さんは政治家じゃないでしょう」
「この業界で食わせていけないのも!」
「あなた一人のせいじゃないですよ」
壇ノ浦は変えられなかったし、変えようとみんなで頑張ることもしなかった。あなたのせいじゃない、と優しく慰められると、それだけで恥ずかしかった。
音楽を学ぶことが、訓練することが、勉強することが、良いことにつながると思っていた。他のことに、成果が得られるかもわからないことに、徒らに時間を割きたくなかった。
壇ノ浦は、力いっぱいシャベルを蹴って、土を掘り進んだ。
上の世代がのこした世の中が、義経くんたちの世代を削りとっていく。
採算が取れないなら、プロではなくなる。職業にできないなら、目指そうと思う人は減る。
他のこともできるようにしておきなさいね、という言葉は、また別の意味をもつようになった。
人が減ったらレベルが下がる。どんどん下手になる。
この地球において人類のピアノのレベルが非常に高いのは、ピアノをやる人間が無数に存在しているからだ。
「若い頃──選挙にも行かなかったし──ほんとに歌のことだけやればいいって信じてた」
あなたは歌手になるのなら、他のことはすべて他の人にやってもらいなさい。他のことをやってもらうんだから、あなたは舞台に出たら絶対に失敗せずに、一番、いい仕事をしなさい。
「いま──残ってるのはほんとに──実家の太いやつか。運のいいやつだけで、他にも才能があるやつがいたのに──はーきつい──他にもバリトンはいたのに。俺と似たような声質で、同世代で俺よりもっと──いいのがいたのに!」
ここにいるのは違う人間だったかもしれないのだ。義経くんという、素晴らしいテノールの横で舞台に立つのは。壇ノ浦は正当なルートで役を得たけれど、本当にそれが順当で正しかったのかどうかは、わからない。
もっとうまいやつが、いたのだ。食っていけないこの業界からそいつらがどんどん居なくなったおかげで、壇ノ浦という下位互換が役を得た。世界がだめだめなせいで、壇ノ浦はおいしい思いをした。
「運も、縁も、実力のうちですよ」
「ばかなこと言わないでよ!運があったって──縁があったって歌は下手なまんまだよ!」
精いっぱいやるだけでいい、本分を尽くすだけでいい、わかる人にだけ聴かせればいい、と思ってきた。それでこのざまか、滅んじゃうだろ、と今は思う。
ほんとは滅んだりしない。滅んだりしないけど、全員下手くそになる。もう全部終わりだ。
「義経くんは──長いこと歌ってくれなきゃ困るよ。やっとだよ──やっとなんだ。こんなオペラ公演、なかなかできないんだよ」
義経くんは業界を変えてくれそうだった。ビジネスとして成り立たせてくれそうだった。
「君が君でいることで──変わっていくんだよ。そんな人他にいないよ」
義経くんが主役をつとめるオペラが興行として成立し、それが続いていくことで、世界が変わりそうだった。
「そのためなら弁慶なんてほんと──どうでもいいよ!殺人してようがしてまいが、恋愛しようがしまいが、本当に──どうでもいいよ!」
ほんとに何もしてやれないけど。何も残してやれなかったけどさ。こんな夜に、弁慶をどうにかしてやることしかできなかったけど。
えいっ!とばかりに、穴に弁慶を二人で投げ入れる。
「義経くん!きみは──」
「大きな声ださないで。壇ノ浦さん」
義経くんは壇ノ浦の顎を掴むようにして手を触れ、『人がきちゃうでしょ』と囁いた。赤ちゃんを宥めるみたいな声だった。
その手はひんやりとしており、壇ノ浦はぼうっとなって義経くんのすてきな顔を見た。木々を透かして、義経くんの背景に月が見える。木というか、これ、竹だ。竹が生えてたのか、このあたり。
「黙っててくださいね」
壇ノ浦くんは顔を近づけて囁いた。彼の声は耳殻をつたって内耳を通り、脳まで撫で上げる。
最初のコメントを投稿しよう!