朝と夜が混ざる時

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

朝と夜が混ざる時

朝 白みがかった景色の中、左手で煙草にそっと、火をつける。 雑味の無い清純な空気と共に吸い込んだ煙は、体内を駆け巡りながら不純物を絡めとって、朝焼けの空に吐き出される。 昨朝の淀みが全てリセットされ、体が弛緩していく様子に思わず微睡んでいく。 流れる煙をぼーっと眺めながら、貧困とか男女格差とか、割とどうでもいい事を考えていると、隣でガラリと、窓が開く音が聞こえた。 ああ、お隣さん今帰ってきたのか 顔は見た事はあるものの、今まで会話をした事はなかった。 引越しの挨拶にも行けていない。 まあ、挨拶に行きたくても行けないんだから仕方ないのだが。 ベランダに出てきたお隣さんが、煙草を取り出し、火をつける。 夕色のカーテン越しに見えるその横顔は、とても綺麗で、何処か懐かしくも思えた。 呆けた面でずっと見詰めていたものだから、自分の視線に気付いたお隣さんが、軽く会釈をする。 自分も慌てて会釈を返し、気恥しさを隠すように、勢いよく煙草の煙を吸い込む。 肺の奥まで呑み込んだ煙は荒々しく体内を突き刺して、その痛みと衝撃に、涙が出る程咳き込んだ。 「大丈夫?」 心配になって声をかけてくれたのだろうお隣さんに、大丈夫ですと答える。 「最近引っ越して来た人だよね」 すみません、引っ越しのご挨拶も出来ないで。 「大丈夫よ、挨拶したくたってできないんだし」 お隣さんが、ハスキーボイスが似合う美人さんだということを、今日初めて知った。 いつの間に手にしていたのか、それはもう美味そうに、缶ビールをごくごくと喉に流し込んでいる。 右手に煙草、左手に缶ビール。 少し枯れたその声は、煙草と酒焼けによるものだろうか。 「仕事終わりなの。そっちはこれから仕事か」 ああ、いや、今日は休みで。今帰ってきた所なんですよ。 「え、今そっちって早朝だよね」 部屋の時計をちらりとみる。 長針は6を、短針は5と6の間を指していた。 もうこんな時間か 今に始まった訳では無いが、昨日は遅くまで飲んでいたせいで、就寝する間もなく朝が深まっていた。 ほんと、今日が何も無い日で良かった。 「珍しいね、飲み屋に行くなんて。しかも遅い時間まで空いてる所なんて、そっちほとんどないでしょ」 確かに、こっちはあまり飲みという文化が定着していない。 ここにあるのは、人々が社会的に生きる上で必要なものと、リフレッシュする為の僅かな娯楽のみ。 朝日が全てを照らし出すこの世界では、後ろぐらい物事等、最早必要無くなった。 夜、色が飛び交う街中で酒を飲み交わす。 そんな世界がある事も、そういう世界で働く人達が居るということも、全ては、母から教わった事だった。 「お母さんの影響か。こっち出身なの?」 そうだ。 母は、朝の街で自分を産んだ。 自分がまだ小さい頃、夕焼けのカーテンの向こうにある、夜の街の話を母は良くしてくれた。 星の林が広がる空の事や、煌びやかに打ち上がる火花の事、 そして、夜の街でしていた母の仕事の話などを、母お手製のジュースを一緒に飲みながら。 グラスの中で輝く色とりどりのジュースは、まだ幼かった自分には何処か苦味を感じる味で、あまり、美味しくはなかった。 母は、とても美味しそうに、懐かしそうに飲んでいたけれど。 「お転婆なお母さんなんだね」 お隣さんはくすりと笑いながら、右手で摘んだ煙草を口に運ぶ。 「お母さんはなんでそっちに?」 若い頃、母も今の自分と同じように、朝と夜の狭間にある物件を借りていたらしい。 夕色に染まったカーテンの向こう側に居るお隣さんに一目惚れしてしまった母は、夜の街を捨てて、朝の街へと移ったそうだ。 「とても良いお話。何だか、今の私達とちょっと似てるかも」 私達とちょっと似てるかも そう言われて、一瞬、心が跳ね上がった。 …良い話なのかな、自分には分からないや。 「どうして?」 母は、父さんの話をあまりしてくれなかった。 物心着いた頃には、もう父さんはいなくて、一目惚れしたお隣さんと母が結ばれたのかすら分からない。 ただ一言、 あの人は何処にも居なかったって ある日を境に、母は急速に体調を崩して行った。 虚ろな眼で夜の事をひたすら話す母は、もしかしたら、清廉過ぎる朝の空気に耐えられなくなっていたのかもしれない。 時計の針が逆に進んでるとかなんとか、訳の分からない事を言っていた母は、やはり何処かおかしくなっていたのだろう。 「今、お母さんは」 母は、自分が高校に上がると同時に姿を消した。 あれ以来、母の姿を見た事はない。 夕色の向こうの夜の街に、母は戻る事が出来たのだろうか。 「…そもそも、私、向こう側の世界に行く方法なんてないと思ってた」 太陽が半分欠けたその日から、この世界は朝と夜のふたつにわかれた。 それらは夕のカーテンに隔てられて、決して交わる事はなく、 人々は、夕焼け越しに互いを見つめる事しか出来なかった。 「偶に、うちの店に飲みに来るお客さんが、向こう側から来たんだとかなんだとか言ってた事もあったけど、酔っ払いの戯言だと思って気にも留めてなかったんだ」 母は、どうやって、この夕色を越えたのだろうか。 夜を愛した母は、夕焼け越しの朝に何を見ていたのだろう。 愛する人との、未来ある明日か 愛する人の生まれた朝の街で母は、夕焼け越しの夜に、何を想ったのだろう。 郷愁に満ちた、これまでの日々か 徐々に、夕色に赤みが差していく。 紅に染まっていく、そのカーテンに手をかけ、夕景のファインダー越しに映るお隣さんをじっと見つめる。 想像でしかない、母の若き頃の姿が重なった。 「…あ、もう0時になる」 しばらく見つめあっていると、ふと、お隣さんが視線を逸らした。 室内の時計を確認しているようだった。 つられて、自分も室内の時計に目を遣る。 大分話し込んでいたのか、気付けば、短針は6を差そうとしていた。 ああ、そういえば この時間になると、母は良くベランダに出て、遠い夕のカーテンを眺めながら自分に良く呟いてたっけ。 『…逢魔時って言葉があるの。まだ、朝と夜が別れていなかった時代よりもっと昔の頃からかな。人々は、夕焼けはこの世と別の世界を繋ぐ境目だと信じていたんだって』 『その時間になると、別の世界から良くないものがやってきて、人の心を惑わすんだって。そして、惑わされた人は、その良くないものと一緒に、向こうの世界に連れていかれてしまうの』 『……人の心を一番惑わせるもの、あなたには分かるかしら』 あの時の母の言葉、一体どういう意味だったのだろうか。 お隣さんに視線を戻す。 夕のカーテンが真っ赤に染まっていた。 それは、恥じらいを隠す少女のようで、 悲しさに暮れる、誰かの泣き声のようでもあった。 見つめ合う。 互いの視線が絡んで、焼き切れる程に熱を帯びる。 時間が気になった。 でも、僕は視線を逸らせない。 「 」 一瞬の事だった。 お隣さんが、口を開いて何かを言いかけて、その瞬間、手が、僕らを隔てる夕焼けに吸い込まれた気がしたんだ。 そしたら、いつの間にか、ここに居て。 どこなんだ、ここは。 誰も居ない、人の気配を感じない。 お隣さんは何処に…… 気付けば、何も無い場所に自分は立っている。 辺り一面には、夕焼けに染まる街並みが広がっていた。 ふと、足元を見下ろす。 鏡面の様に透き通る水面には、朝の街並みが広がっている。 僕は、両手で朝を掬った。 手の中で揺らぐその朝は、差し込んだ夕景に照らされながら淡く輝いていて、 僕は、朝を飲み込んだ。 清純で、清廉で、潔白で、物悲しく、質素なその味に、涙が流れる。 空を見上げる。 星々を散りばめた綿雲の先に、夜の街並みが広がっているのが見えた。 夜の一部が、星となってきらりと落ちる。 僕は、それを両手で受け取った。 手の中で輝く夜は、飲むには少し固くて、喉につっかえそうなものだったから、 夜を抱えたまま、朝を掬って少し溶かしてみる。 溶けた夜は、差し込んだ夕景で艶やかに輝いていて、 僕は、夜を飲み込んだ。 刺激的で、官能的で、退廃で、刹那的で。何処か後悔と嫌悪感を感じさせる、矛盾を孕んだその味に、嗚咽と共に涙が流れる。 不思議だ。 遠く、水平線の向こうまで夕景が広がっているのに、少し目線を下げると、朝が広がっていて、少し目線を上げると、夜が広がっている。 ここには、朝と夕と夜が居座っている。 いや、違う。 今、自分は、あの朝と夜を隔てていた、夕焼けの中に立っているんだ。 夕焼けの中から、僕は今、朝と夜を眺めている。 朝と夜の狭間に立たされているんだ。 僕は、選ばなくてはならない。 明日に流れる朝と、過去に留まり続ける夜と。 何処へ行けばいいのだろう、なんて そんな事、悩む必要はなかった。 僕はもう、自分の心を惑わすものがなんなのか知っている。 それが向こうにあるのなら、行かなければならない。 水流に足をすくわれた自分は朝に流れる。 辺りに飛び散った朝の雫は、夕景に溶けて夜に昇って行った。 ああ、母も同じだったのだろうか。 母もこの景色を見たのだろうか。 ここに立って、母は何を思ったのだろう。 それは、もう分からない。 もう、分かる事も出来ない。 でも、この夕を越えて、母が得ようとしたものを、理解する事が出来るのなら 一人、静かなこの世界で、僕は、そっと夜に手を伸ばした。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!