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弘化元年（1844年） 冬
冬の寒さで冷え込む江戸城。
登城を果たした幕臣たちは、身分に応じて割り振られた詰所に入るのだが、一人だけその列から離れ、入側から濡縁に立ち、曇り空を見あげている男がいた。
年齢は五十ほど、黒羽二重の着物でも分かる痩身と、面長で神経質な顔立ち。切れ長の瞳は鋭く、一文字に引き結んだ唇は薄い。
ややあって、はぁ。と、男の唇から呼気が漏れ、白い輪郭へと形を変えて外の寒さを物語る。
雪が降りそうな気配の中で一人、心ここにあらずと言ったようすで、ただただ佇むこの男を誰も気にかけない。案じることもしないし、だれも声をかけることもしない。
まるで厄介を具現化した、この男の存在自体が煩わしく、屋敷に帰って欲しいのが本音であった。
頭脳明晰で将軍からも信頼が厚く、老中のまとめ役である首座にまで上りつめたこの男は、庶民の恨みを買いすぎた。
男の屋敷が暴徒に襲撃され、襲撃の先導をしたのが主家に仕える足軽だったことも、男に対する同情よりも、爽快感と小気味よさを感じさせ、身分問わずに溜飲を下げさせたのが昨年の話。
飽くなき野心と権力に憑りつかれた者の成れの果て、一年も経たずに再び老中首座へと返り咲いたこの男――水野忠邦はなにを思うのか。
水野の復職は将軍の意向とあるが、幕臣たちにとっては冗談で済ませる話ではない。
この男の行った天保の改革は、多くの人々を不幸にし、大名や大奥をも敵にまわした。それでも尚、水野を担ぎ上げる理由は、慢性的な人材の不足もあるのだろう。水野の前任である土井利位の手腕が、十二代将軍【家慶】の求める水準に、達しなかったことも大きいのかもしれない。
だが、それは……と、彼らは無意識に下を向く。
幕府の行く末よりも、自分たちの行く末を案じることは、武士として情けないことだろうか。
深々とため息をつく幕臣たちは、空から小雪がちらついていることに気づかず、服に雪がついた水野が、虫を払うように叩き落としたことにも気づかなかった。
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