雪那(せつな)~悪魔外道の水野忠邦と歴史の影に隠れた雪の殿様~

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 意識が闇へと沈んでいく。水野の目の前に交差するのは、過去と現在の情景であり、よぎる記憶の向こう側で土井が苦々しい顔で水野を見ている。 『どうか、上知令(あげちれい)印旛沼(いんばぬま)の開拓を取り下げてください』  水野の失脚前。静かな揺るぎない声で、土井は土井なりの最終通告に来た。  上知令反対派の盟主となった土井は、己の勝利を確信しているからこそ、水野に雪のごとき潔さを求めていた。 『開拓の中止は今更できなぬ。諸外国の勢力が港を封鎖した時に備えて、印旛沼(千葉)から関東へと、新たな水路を確保しなければならないからだ』  加えて言うならば、印旛沼は()み地でもある。  小さな開拓工事から幕府が介した大規模なものまで、資金難と天災で何度も中止と中断を繰り返し、大老である田沼意次(たぬまおきつぐ)を失脚させるきっかけを作ったほどだ。  印旛沼の自然を屈服させ、事業を成功させれば水野忠邦の名は天下に轟く。  今回の開拓事業において、各藩に資金を出させて十分な人員を確保し、最新の技術を投入して、前者の(てつ)を踏まないよう入念な準備を整えてきたのだ。  辞める選択肢なんて存在しない。 『改革の必要性は承知していますが、あまりにも性急すぎます。民は辛く苦しい日々を乗り切るために、娯楽と喜びが必要なのです』  痛いところを突かれた。と、水野はその時思った。  贅沢を禁じた倹約令は、季節の初鰹(はつがつお)どころか庶民が食べる豆腐の大きさにまで制限をかけ、舞台や大衆娯楽の書物の出版を禁じ、華美(かび)な着物と装飾の売買と生産を禁じ、女性が髪結い(美容院)に行くこと自体も取り締まりの対象とした。  食料、日用品、芝居、化粧、書籍、風俗、商売する者を処罰し、購入する者の財産没収は当然であり、あまりの締め付けの厳しさから、北町奉行の遠山景元(とうやまかげもと)が反発する。  遠山は訴えた。人々の娯楽を奪うことで犯罪が増え、贅沢の取り締まりを強化するほど市井に失業者があふれると。  寄席(よせ)と芝居小屋の全面撤廃を訴える水野に対して、臆することなく立ち向かう遠山は、粘り強く交渉を重ねて芝居小屋を移転、寄席は大幅に規模を縮小し、制限付きで残すことで折衷(せっちゅう)させた。 ――なぜだ。なぜ、ワシが悪役になる。  人々は遠山の奮闘に感謝するが、その感謝は本来自分にあるべきはずなのに、世間ではその一件で水野の悪役が定着してしまった。なんとか存続を許された芝居小屋の人々が、感謝の証として遠山を正義の味方として描いた――【遠山の金さん】という、勧善懲悪ものを流行させたのも裏切られたような心地であり、民をさらに増長にさせてしまったと頭を抱える。  自分はそんなに悪いのか?  なぜ楯突く?  なぜとるに足らない町民の味方をする? ――ワシはそんなに、弱者を虐げる悪魔外道に映るのか?  水野がなにかをすれば、遠山が牽制する。  補佐役の一人である、南町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)が、水野のあずかり知らぬところで、遠山と暗闘を繰り広げたらしいが、結果は水野と共に悪役に名を連ねて、名前をもじって【妖怪】とあだ名されるほど江戸庶民に嫌われる始末、果ては奉行に登用した水野の評判を地に落とした。  さらに忌々しいのは、鳥居が水野を裏切り寝返ったことだ。  まるで重箱の隅をつつくように庶民を取り締まる、鳥居の仕事ぶりを評価している一方で、この男の陰険で狡猾な人格を内心で蔑んでいた。  そんな自分が見下している相手に、足元をすくわれるなんて不愉快極まりない。しかも寝返った先が土井だ。  鳥居の寝返りと情報の横流しが、土井を筆頭とした反水野派を台頭させ、水野を辞任まで追い込んだのだ。  今思えば、庶民と迎合して雪華の小物をちまちま作り、小遣い稼ぎをしていた男だ。倹約令に対して、受け入れ難いものがあったのだろうが、普段は一歩ひいた従順な態度をとりながら、裏で着々と工作を進めて一気に寝首をかきにいくなんて、あまりにも非道すぎる。  気づいた時には、味方が一人もいなくなっていた。 ――えぇい、なぜ、なぜ、ワシのそばに誰もいないっ!    贅沢の取り締まりに例外はない、大奥にも将軍にも倹約を断行し幕府の威信を取り戻すための規範を求めたのだ。なにも間違ってない。自分はなにも間違えない。  民の贅沢を禁じれば乱れた市場の相場が元に戻る。失脚と同時に、民衆に屋敷を襲撃されて、水野は自分の正しさを確信したのだ。  この世の乱れは、政治に関心がない上に自分のことしか考えない人間が増えたゆえだと。必要だからこそ改革を推し進めたのに、必要性を理解できない、理解しようともしない庶民だから平気で屋敷を襲うことができるのだ。  幕府のため国のために、みなが同じ足並みをそろえることが適えば、金の流れも正常化する。いや、そうなるべきと考えて、取り締まりのために町中に密偵を放ち、その密偵を監視する密偵をつけるほどの徹底をした。 『倹約令によって消費が冷え込み、行った改革はすべて裏目に出ました。ここまで、多くの人間を敵にまわしてまで、改革を断行することではございません』  土井の言う通り、結果は不況を加速させただけであり、市場の利益を独占していた、株仲間(かぶなかま)を解散させたら商品の流通が混乱した。  なんとか脱走した農民を無理矢理帰農(きのう)させ、都市部への出稼ぎに期限を設けて、農地の人手不足と荒廃した地域の再生を目指そうとしても、飢饉と重税がそもそもの元凶であるのだから結果は言わずもながら。 『ほう、それで断言するおぬしの根拠は何だ? ワシはこの国をアヘン戦争で敗れた清のようにしたくない。おぬしも知っているであろう、異人の脅威を』  改革の目的であり国防の(かなめ)――上知令は、江戸と大坂周辺を幕府直轄にするための土地の没収である。幕府直轄になれば万年赤字の幕府を支えるため、さらなる重税が課されることは確定している。  そんなことになれば生活できないと、対象地域の住民たちは強く反対し、代わりの土地を与える救済措置を(こう)じたものの、大名と旗本たちは反発した。さらには出世の為に、自領の一部を幕府に捧げた水野の薄情さを糾弾したのだった。 『この国の危機が迫っているからこそ、幕府の権威回復と防衛費の捻出の為に上知令は絶対だ』  すべては金。金だ。金と権力が必要なのだ。  権力を手に入れるために、周囲にも自分自身にも犠牲を払ってきた。  恵まれた境遇に胡坐をかき、好き勝手に生きてきたお前になにがわかる?  お前が好きな雪の研究をしている間、自分は趣味の時間を諦めた。  お前が武士らしからぬ態度で、町人と偽物の雪華で戯れている間、自分は自分の地位を守り、降りかかる火の粉を払ってきた。  すべては金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、金、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分が、自分がッ、自分があぁッ!!!  水野の意思が揺るがないことを見て取り、土井は疲れた顔で言う。 『大坂に赴任していた頃の話です』 『なにっ!?』  土井の言葉に、水野の中で嫌な記憶がよみがえる。  当人は関知(かんち)していないが、水野は土井に対して精神的に大きな貸しがあった。  天保八年(てんぽうはちねん)(1837年)に大坂(おおさか)で起こった、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱。その背景には冷害による凶作と、水野の異母弟(いぼてい)であり大坂の東町奉行である跡部良弼(あとべよしすけ)が、貧民救済を願った大塩の陳情を無視した上に、水野()の要請で江戸に米を送ったことが、反乱のきっかけを作ってしまった。  ただの一揆でも打ちこわしでもない、元与力(もとよりき)という体制側の人間が起こした反乱。それが周囲に与えた衝撃は計り知れず、救世の旗を掲げた三百人の(ぞく)は大坂の五分の一焼失させて、多くの死傷者を出したものの、たった一日で鎮圧された。  反乱鎮圧の総指揮を執ったのが、当時の大阪城代(おおさかじょうだい)である土井であり、一方、弟である跡部は大砲の音に驚き落馬したという(てい)たらく。初動が遅れたのも、跡部の怠惰が招いたことだから、思い出すだけで頭が痛い。  その頃の水野は老中であり、老中首座を手に入れるため、少しの瑕疵(かし)も許されない日々を送っていたところを、自らの過失と身内の失態によって、後ろから撃たれる形となった。  もしも土井が大坂の治安を担う――大阪城代としての手腕を発揮して、初動の遅れを取り返し一日で反乱を鎮圧しなかったら、果たして自分はどうなっていただろうか。  反乱鎮圧の数年後に、老中へと就任を果たした実力には、頼もしさとともに嫉妬を感じたことも覚えている。  もしや、大塩のことを蒸し返されるのかと。水野は恐々とした。
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