1.イブの夜

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1.イブの夜

 クリスマスイブの夜に雪が振る。  なんというか、ロマンチックな響きだ。  子供がいれば喜ぶかもしれない。できたてカップルには良い思い出になるだろう。  だがそれも暖かい部屋の中から外を見ていれば、の話だ。  凍える吹き降りの渦中を歩く瀧澤(たきざわ)浩志は、四十半ばにして初めて身をもって実感していた。  雪片を含んだ凍り付くような風に苛まれつつ歩く道は、いつもの店に向かう慣れた道の筈。なのに景色が全く違って、よそよそしく見える。まるで知らない街で迷っているかのように重い足は、風に煽られて時折よたる。  メガネに付いた雪が溶けて水滴になった視界は滲んで、よく見えない。手をポケットから出すのが嫌で、どうせ周りなど見ないと放置で溜息まじりに歩き続けると、見慣れた行灯(あんどん)看板の灯りが目に入り、足が早まる。  雪のあわいで(とも)る灯りが、そこにある文字が、あそこに行けば助かる、と訴えかけてくる。あの扉の向こうは、とても暖かなのだ。  いつもより強く、それを感じた。 「いらっしゃい!」  扉を押すと、いらえの声と共に騒がしい音楽が耳に流れ込んでくる。この店で流れるのはオールドロックだけだ。これは、Holy Man。ホワイトスネイクか。懐かしいな。  イブの夜に相応しいとは言えないが、すり切れるほど聴いた曲だ。高校時代、友人と中古レコードを探して色んなバンドを聴いたな。  ほろ苦い笑みと共に思い出し、肩の力が抜けた。  乾いた声音(こわね)のシャウト。唸るように走るベース。華やかなギターのリフ。激しくエモーショナルにビートを刻むドラム。  その合間に、イブを祝うおっさんの声が交じる。  ああ、この店らしいな。  そんな『らしさ』が、ふわっと身を包んだ暖気が、瀧澤のくちもとを緩ませた。心身を締め付けていたものが、ふわりと溶けていく。  そう思う瀧澤の視界はまっ白になっていた。寒風の中から暖かい室内に入って曇った眼鏡を外すことなくマフラーを解く。凍えていた耳や指先や鼻の先に、じわじわと血流が戻ってくる。 「タキさん、遅かったすね!」  赤や緑の色彩が散らばった店内を背景に、青年がニッと笑んでいる。店主を除けば唯一のスタッフ、池垣だ。  精悍というか強面気味で、確か二十三歳だったか。バンドをやってるらしく、触ったら痛そうにツンツンした金髪だし、耳にはいくつもリングピアスがついている。 「メガネ真っ白じゃん。寒かったでしょ」  瀧澤から奪ったマフラーを自分の首に掛け、コートも寄越せと手を伸ばしてくる青年。曇った眼鏡を外して彼を見た瀧澤は、微妙な顔になった。  強面の頭には紙製の派手な三角帽子が乗っかっていた。顔も妙にふやけている。  それ、まったく似合っていないぞ。  と言うべきか一瞬迷ったが、池垣は満面の笑顔だった。まあ本人が愉しいなら問題無いか、と瀧澤も笑みを返す。 「ありがとう」  脱いだコートを渡し、畳んだ眼鏡を胸ポケットに突っ込むと、青年は、あっ、と慌てたような顔をした。 「タキさん、眼鏡拭きますよ」 「いや。いい」  苦笑で首を振る。  コレは老眼鏡で、元々の視力はそう悪くない。  ただ細かい文字やモニター画面を見るときにコレがあったほうが楽という程度なので、無くても生活に支障ない。だが、早めに老眼が来たと知られるのもナニなので会社では『視力が落ちた』とだけ言って常にかけてるってだけだ。 「おお~、タキさん」 「今日は遅かったな」 「残業かい?」 「こんな日なのに」  声をかけてくれる常連たちに苦笑を向けつつ片手を振り、カウンターの定位置に腰を落ち着けた。  こんな日に、か。  そうだな、クリスマスだ。昔は祝ったこともあったが……ああ、そうか。  お袋も、あえてこの日、だったのか。共に祝おうとしたのか。 「お疲れ」  声と共に生ビールの中ジョッキが置かれ、思考に落ちそうになっていた目を上げる。  顎髭を生やしたチョイ悪オヤジがニンマリと笑んでいた。 「おお、済まん」  早速ジョッキに口をつける。ごくごく喉ごしを楽しみつつ一気に三分の一ほど減らし、プハッと息を吐いた。瀧澤が店に来るとまずこれをやるので、この店『Last romance』の店主、芝草瑛太郎は何も言わずともジョッキを出してくる。  ぼうっと店主の目を見ながら、瀧澤はホウと息を吐いた。身体から強張りが抜けていく。  高校時代からの腐れ縁。そうだ、芝草の前で虚勢を張る必要はない。それに  ───ついさきほど、こいつは瀧澤の、最も近しい人間になった。  苦い笑いを打ち消して残りのビールを呷ると、改めて店を見回す。  柿渋色に染められた作り付けの棚やカウンター。並んだ酒瓶やグラスをダウンライトが照らすのみで、整頓されているが、いくつか貼られているオールドロックのポスター以外飾りも無い、よく言えばシックというか素っ気ない景色の店……なのだが。  今日は赤い実や松ぼっくりが密集するリースだの、柊の葉を象った緑や金の飾りだの、連なったテラテラ光る星だのが店を彩っている。  あちこちにサンタやトナカイの置物や、カウンターには小ぶりなクリスマスツリーが置かれていて、華やいではいるが雑然としている。 「ずいぶん様変わりしたな。昨日までこんなじゃなかったろ」  声をかけると芝草は、カウンターの中で苦笑した。 「俺もビックリしたよ。店に来たらこんなコトになっててさ、イケが勝手に」 「だろうな。おまえのセンスじゃないとは思った」 「あー! なに人のことディスってるんすか!」  賑やかに乾杯している常連たちに三角帽子を配りながら、池垣が大声を出した。カウンターと椅子席が四つほどの狭い店だ。たいして抑えていない声は、当然聞こえる。 「タキさん来たし、本格的に始めましょうよ。ていうかエータロさん、この帽子かぶってくれないんですよ」  常連たちは、渡された三角帽子を素直にかぶっているが、 「いや、さすがにそれは無理」  即座に真顔で言ってタバコに火をつける芝草に目をやりつつ、クッと笑ってしまう。あれをかぶるなど、芝草が(うけが)うわけが無い。瀧澤もひとつ渡されたが、カウンターに置いて放置した。自分だって絶対に嫌だ。 「……いい匂いだな」  それより気になることを言うと、芝草は嬉しそうに目を細めた。 「遅かったけど、食ってないの?」 「ああ、腹ぺこだ」 「ちょ、無視とか酷くないすか?」  池垣が騒ぐのはいつものことだ。瀧澤は芝草を見たままニヤニヤ続ける。 「今日はなんだ」 「当ててみな?」  咥えタバコで片目を瞑ってみせる友人に、苦笑しながら「鯖味噌か」と返した。 「あたり」  芝草は目を細めて片頬で笑い、女が聞いたら甘く聞こえるに違いない低い声で言った。 「しばしお待ちを、ティアーモ」  片目を瞑ってひらひらと手を振りながら、カウンター奥の左端にある厨房へ消えていった。  昔からキザっぽい男だったが、セリフといい仕草といい、イタリア男のようにサマになっている。年齢を重ねてキザに磨きがかかっているなと思いつつ、ゴクゴク喉を鳴らしてジョッキの中身を減らしていると池垣が寄ってきた。 「まるっと無視って」  ぶつぶつ言いながら、おしぼりを渡してくれる。 「ありがとう。まあ、気にするな」 「だって今日、クリスマスっすよ? 少しはそれっぽくしないと」 「なに、明日には全部無くなってるさ」  苦笑交じりに瀧澤が言うと、池垣は、はあっ、と身体全体を使って大袈裟にため息を表現する。 「ですよね、分かってます。どうせ一晩の命なんだろうなって」  唇を尖らせているのを横目で見やりつつ、暖かいおしぼりで頬や鼻を包んだ。 「分かっててやったのか。金もかかっただろうに」 「百均ですよ。全部で三千円もかかってないです」 「ふうん、百均ね。こんなもんもあるんだな」  店のあちこちを彩るクリスマスカラーに視線を巡らせ、感心したように言うと、青年は耳を飾るいくつものピアスを揺らしながら吹き出した。 「タキさん知らないんですか。イベントの飾りは百均の得意分野ですよ? ていうかクリスマスなのに味噌とショウガの香りって!」  箸やつきだしを並べながら続く声が、不満げになっていく。 「せめてチキン焼こうって言ったのに。エータロさん、なんで鯖味噌なんて作っちゃうかな」 「俺はチキンの足より、こういうのの方が助かるが」 「うわ好み把握してる的な? ま、エータロさんが料理出すの、タキさんだけだし」 「俺は料理人じゃないからな」  戻って来た芝草が、鯖味噌の皿と小鉢、飯椀をカウンターに置く。 「コイツに食わせるモンくらいしか作れないんだよ。そもそも、うちの店は酒とつまみしかやってない」  艶ある味噌だれに包まれた鯖の匂いが鼻を擽った。香ばしさに食欲をそそられ、おのずと緩んだ頬のまま箸を取る。 「……うまそうだ」 「味噌汁欲しいなら作るよ」 「いや、いらない」  早速ひとかけくちに運び、すぐ飯を押し込む。 「ほんと、初めて見たとき、なんで厨房あるのに料理出さないのかって不思議でしたよ」  それは滝澤も以前から疑問に思っていたので、かっこみながら問う。 「そうだぞ芝草、料理人を雇わないのか」 「んん? それって俺の手料理じゃ不満があるって言いたい?」  芝草が眉を寄せ、わざとらしい流し目を送ってくる。 「違う違う」  慌てて言った。十年以上ほぼ毎日、芝草の手料理を食っているのだ。  文句を言うなど、とんでもない。 「そうじゃない、経営上の話さ。素人考えだが、料理を出した方が売り上げも上がるんじゃないか、てな? おまえの飯は、毎日うまいよ」 「ふうん?」  芝草はまたタバコを咥えながら片頬で笑み、目を細める。 「本当だ。今日のもうまい」  飯を食わせてもらうだけじゃない。芝草には世話になりっぱなしだ。  離婚してから気楽な一人暮らし。掃除してくれるような女もいない、というか最近、女って生き物は怖いと思うようになっている。興奮すると言葉が通じないし、話の飛躍は理解不能、なんでそうなるのか分からない。むしろ女はいらない。芝草が来てくれるからな。  芝草は週に3日か4日はうちに来て、掃除や洗濯もしてくれる。来る度にかなり怒られるのが不満と言えば不満だが、確かに部屋の居心地が良くなるので素直に従っている瀧澤である。  下手に文句など言って、それ以降来なくなる方が大問題だ。芝草とは今のまま、近い距離感のままでいたいし、芝草が来てくれるのは単純に嬉しい。帰ると言うのを「呑もう」と引き留め、そのまま泊まらせることもしばしばだ。 「ならいいけど、これからも料理出す気は無いよ。リスクが多すぎる」 「リスク?」 「そう。まず料理人を雇うなら人件費がかかるだろ。その分確実に売上が増えるという保証なんて無いしな。客の入りを予想して食材調達したとして、予測が外れて売れ残る、使い切れなかった食材がダメになる、なんていう可能性も否定できない。廃棄物が増えれば、それにも金がかかるしな。そういうロスだけじゃなく、食中毒なんてリスクもある」 「だが、料理も出せば客が増えて、儲かるんじゃないのか」 「儲けなんて要らないよ。生活していける収入があれば。大事なのはこの店を維持することだ」 「なるほどな。相変わらず慎重派ってわけか」 「まあね」  また片目を瞑った伊達男は、常連に声をかけられ、酒を準備し始める。  芝草は、初めて会った高校二年のときから大人びていた。  外人ぽい派手な外見で、仕草は気障な転校生。女にモテたし、クラスメイトは最初、反発を覚えていた。だがすぐに気づいた。  転校生が全く軽薄ではないことに。  それどころか慎重に考えを巡らせた上で言動を選んでいるということにも。  そのきっかけは、たいてい誰かへの助言であった。嫌みにならない程度に偉そうに、そしてさりげなく伝える様子を見れば、いやでも気付く。この転校生はしっかりした考えを持っていて、相手を尊重した物言いなど、同じ高校生とは思えないほど大人びている。  当時クラス委員だった瀧澤は、いち早く親しくなったが、みなが芝草に一目置くようになるまで、さほど時間はかからなかった。 「おかわりは?」 「飯は良い、鯖味噌をくれ。つまみにする」 「じゃあジョッキもう一杯いくか?」 「いや、ウイスキーにするかな」 「ん。鯖味噌ならアイラモルトかな。合う奴を出してやるよ、お待ちを、カーロ」  いつものように片頬で笑い、ウインクを寄越しながら言った芝草は、この店を始めるときに酒について学んだらしい。さほど酒に詳しくない瀧澤は、こいつのチョイスに間違いは無いと信じ、全て任せている。  商社を辞めてこの店を始めると聞いたときは、慎重な芝草らしくも無いと驚いたが、芝草はやはり芝草だった。  必要な知識を蓄え、人脈を作り、どういう店にするか考えた上でこの建物を購入した。耐火基準や耐久性も考えて改装し、上の階はテナントとして貸している。つまり定期収入があるのだ。 「こういう店がやりたかったんだ」  そのためにここまでしたと聞いたとき、却って芝草らしいと納得したものだ。  就職して疎遠になっていた芝草と再会したのは同期の結婚式。  当時、離婚して半年も経っていなかった瀧澤は荒れた生活をしていたのだが、再会した芝草が部屋までやって来て、瀧澤を叱咤しながら全てきちんと整えてくれて、うまい飯を食わせてくれた。  それで目が覚めた。そこから生活を立て直すことができたし、芝草が店を始めてからは、ここにメシを食いに来るのが瀧澤の憩いの時間となっている。  ありがたい。  実のところ、芝草には感謝しか無い。  さらに今日、つい先ほど、瀧澤はしみじみ実感したのだ。  今、最も近しいと言えるのは芝草なのだな、と。
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