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正次の声がした。見ると、首に無数の筋を立て、顔を真っ赤にして絶叫を発している。
龍二は思わず苦笑するような気持ちになった。
――おいおい、正次。そんなに大声を出すんじゃねえよ。それより大学へちゃんと行くんだぞ。しっかり勉強して、えらい人間になるんだ。まっとうな道を歩んでいけ。
「兄さん、兄さん」
今度は雪乃の声が耳元で鳴った。
龍二に覆いかぶさるように背中を丸め、身も世もなく泣きじゃくっている。
――雪乃よ、俺はもう疲れたんだ。心底、疲れ切った。この渡世は俺にはあまりに過酷すぎる。悪いが、ここらで終いにさせてくれ。お前は長生きするんだぞ。仁とふたりで幸せな家庭を築くんだ。俺の分まで存分に人生を味わってくれ。
「兄さん、死んじゃ嫌!」
「兄さん」
「龍二さん。龍二さん!」
いつまでも耳元で鳴り続ける愛する者たちの悲嘆の声を聞きながら、橘龍二は、現世ではついに手に入れることの叶わなかった完全なる自由の世界へと、眠るように堕ちていった。
明治二十四年六月八日。
町田村の東京都移管が正式決定する前夜の、おぼろ月夜の晩のことであった。
(了)
(参考文献)
町田市史 町田市史編纂委員会
町田歴史人物事典 小島資料館
絹の道・原町田 森山兼光 武相新聞
アウトローの近代史 礫川全次 平凡社新書
板垣退助 榛葉英治 新潮社
村野常右衛門伝 色川大吉 大和書房
ヤクザと日本 宮崎学 ちくま新書
やくざと日本人 猪野健治 ちくま文庫
博徒の幕末維新 高橋敏 ちくま新書
近代ヤクザ肯定論 宮崎学 ちくま書房
変革者・小泉家の三人の男たち 梅田功 角川書店
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