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「しなやかだったのにね。昔の貴方」
むかし二人で幾度も通った喫茶店の端の席。ピンクの公衆電話の斜め前で、私はマッチを擦って吐き捨てた。
「あの頃はまだ子供だった。今の俺には活動を通して世界が見えている、闘争すべき敵も、救援すべき人民も、どうして君にはそれがわからないんだ」
「カツドー?トーソー?こんな喫茶店で毎日スパイごっこの電話番が?」
チェリーの煙と一緒に吐き出したうす笑いの毒気を叩き割るように、彼はテーブルに拳を打ちつける。かつて、トランペットを甘く奏でていたその白く細かった手は、今や浅黒く小さな傷の上に傷を重ねる。労働者の手だと、大学しか知らない彼は鼻高く誇っていた。
「我々を侮辱するつもりか」
「勝手に自分を大きくしないでくれる?目の前に座っているのは誰?私はモータクトーでもニクソンでもなく貴方に唾を吐いてんの」
「とにかく、我々の活動を支持できないのなら、どちらにせよ君とはここまでだ。世界に目も向けず、ただ目の前を見つめることしかできない君とは」
「貴方にそんな勇気、ないものね」
彼はもうなにも言わなかった。けれど、その怒りに震える唇が、二度と私の耳元で歌うことはないことだけは分かった。
時間がないから、と立ち上がった彼は、まるで父親のお下がりみたいなおかしな背広を着て、似合いもしない黒縁の眼鏡を掛ける。そんな姿を見てたら、ふと、思い出した部屋の隅。
「エヴァンスのレコード、私の部屋にあるんだけど」
「君にあげるよ。もういらない物だ」
伝票と愛した人だけが消えた私の前の空間に、一口分だけ減ったアメリカンコーヒーがまだ湯気を出していた。
今日はパパが出張でよかった。棚に飾ってあったオールドパーを指二本分だけ注いで、家に一台だけのレコードプレーヤーに針を落とす。食器のぶつかる音、話し声、狭い店内に大勢の人がいる雑音の森の向こうに流れ始める一途のピアノ。彼を見つけた時みたいな音。
ポマードで固めたチェットの真似事みたいな髪は、可笑しくて笑っちゃったけど、変装のためにあてたパーマやメガネ姿よりずっと彼だった。
世界を変える?笑わせないでよ。貴方に変えられるものなんて。
鏡の前で二時間かけて纏った鎧が、流れるみたいに崩れてゆく。肺まで吸った煙も、苦いばかりのお酒の味も、よくわからない音楽も、身体に染み込んで二度と消えてはくれないみたい。知らなきゃよかったことばかり、しがみついて離してくれない。
出会ったあの日、今よりずっと大人に見えた貴方に借りたレコードは針の下をグルグル回る。
私はただ、出口の無い迷路のような音の森の中で、二年前の貴方を探して、目の前にいたはずの貴方を探して、擦り切れるまで回り続けて、一人。
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