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心配事
僕は自分を、真面目な模範生だと自覚している。多少嫉妬深く、僻みっぽい部分を隠し持ってはいるけれど、おおむね良好な人間の範囲内と言っていい。そう自負している。
医師という職業に就き、勤務態度も真面目で患者や同僚からも慕われ、私生活では恋人にも恵まれる充実ぶり。今の生活に、不満や不安は何ひとつない。
何ひとつない、はずなのだが。
超過勤務を終えて、ようやく家路についた僕の足取りは重い。
同僚は家に帰ったらゆっくり休もうだの、彼女に連絡しようだのと明るい話題を振りまいているのに、僕はそんな話をする気にもなれず、胸にあるのは一点の心配事だけだ。
病院を出ると、出迎えるのは照りつける太陽と、街路樹を吹き抜ける生ぬるい風。
「眠い……眩しい……お腹空いた……」
思わず漏れる独り言はため息も混じり、とても前向きな明るいものではない。それでも、数メートル先の角を救急車がサイレンを鳴らし駆け上がってくるのを見ると解けかけた緊張の糸がピリッと張り詰めるのを感じる。
――駄目だ、早く休まないと。
医師になったばかりの頃、体は疲れているのに緊張感でじゅうぶんな休息が取れず、過労で倒れそうになったことがある。今は仕事と休息を上手に切り替えられるようになったものの、意識しないとつい休むことを忘れて困憊しきってしまうところがあった。
――早くあの人の顔を見てホッとしたい。
襲い来る疲れを払い除けながら、それでも慣れた足取りで駅の人混みを抜け、繁華街を横切って閑静な住宅街に入る。
大通りを渡ると、そこからは都会の喧騒が嘘のように静寂に包まれている。坂になっている道を振り返れば、夜には繁華街とそれに続く港の灯りが遠く離れたオアシスのように煌く。
目的地までの目印として覚えていた、小さな雑貨屋さんの前の古い円柱のポスト。その前で立ち止まり、振り返って夜景を見るのが習慣になっていた。
今は朝の九時を過ぎたところで、ロマンティックな夜景はない。それでも僕は振り返って街並みを見下ろした。「さて、これから行くぞ」と気持ちを落ち着けるための儀式のようなものかもしれない。儀式を済ませてから、目的地へ向かって歩いた。
五分ほど歩くと、無機質なコンクリート二階建ての建物が見える。建物自体はどこにでもある普通の工務店の事務所。だがなんとなく異質的なのは、それを取り囲む塀だ。僕の身長よりも高い塀がぐるりと回りを囲み、厳重な鉄の門扉ががっちりと通せんぼしている。
――やっぱり、いつ来ても落ち着かない。
中に入ろうものなら射殺されるのではないかと思ってしまうその重厚な門扉を、意を決して把手を握り、緊張しつつガラガラと開けて中のドアにあるインターホンを鳴らした。すぐさまドスの利いた男の声が出迎える。
「はい」
「陽野ですが」
――何度来てもこの瞬間だけは慣れないな。
それもそのはず。僕がいるのは、指定暴力団・紫雲会傘下、龍義会の組事務所なのだから。
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