心配事

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 泣く子も黙る龍義会の組長さんとその部下に挟まれて他愛ない会話をしながら、予定通り映画を見て昼食を取り、石田さんとやらのアパートに行った。  築三十年は超えているだろう古アパートの玄関ドアを開けて出てきた石田さんの印象は、本当にただの冴えないオジサンだった。  こんな人がヤクザの構成員なのだと聞くと気の毒になってくる。  お世辞にも綺麗とは言えない玄関を通され、狭い廊下を徳網さん、僕、ヒロくんの順に一列で進んでリビングに入る。梅雨も間近だというのに、窓とカーテンを締め切った室内は空調もなく不快だった。  おもむろに床に置かれたゴミ袋からは何日分も溜め込んだ弁当の空き箱や生ゴミが溢れ出し、異臭を放っている。つい先ほどフレンチのコースをお腹いっぱい食べた僕は気分が悪くなって思わず手で口を覆った。  しかし徳網さんはそんな部屋を目の当たりにしても顔色一つ変えず、まるで調べ物でもするかのようにぐるりと部屋を一瞥した。そしてぽつりと、 「ひでぇな」  とこぼした。石田さんはそれを聞いてさらに背中を丸く縮め、意味のない会釈のような動作を繰り返している。徳網さんにこうまでさせて、いったいこの人は何をしてほしいのだろう。  ゴミだらけの床には飲み干したビールの缶と吸い殻の溢れた灰皿が放置されていて、うっかりそこを歩いてしまったヒロくんの靴下を汚した。 「チッ……汚ぇな」  ヒロくんの乾いた声がじめじめした空気を切り裂く。僕の不快感と同様に、ヒロくんの苛立ちもピークを迎えようとしていたとき、おどおどするばかりの石田さんに代わって徳網さんが口を開いた。 「おい石田、こんなのどう考えても普通の生活じゃねぇだろ。てめぇ一人でどうにかできねぇなら、赤ん坊はよそに預けて仕事に集中しろ」  僕も同意だ。赤ちゃんのお世話どころか、自分のこともまともにできていないのは一目瞭然だ。  それなのに石田さんときたら、まだもごもごと意味の分からない言葉を口の中で転がしておどおどしている。そこでふと、「そういえば赤ちゃんはどこにいるのだろう」と思った。  突如、激しく甲高い声を張り上げて部屋の隅の空気が揺れた。同時に、洗濯物の山だと思っていた布の塊がもぞもぞと動き始める。 「ああ……す、すみません、お、起きちまいました」  一層おどおど狼狽える石田さんを見て、部屋の隅っこに赤ちゃんがいるのだと分かる。咄嗟に徳網さんの体が動いて、吸い寄せられるように部屋の隅で動く布の塊を覗き込む。僕もそれに続いた。  小さな布団をそっとどけると、そこには生後間もない赤ちゃんが転がって泣いていた。 「わぁ、小さい」  徳網さんの横で覗き込んでいた僕も思わず声を上げるほど、小さくてまだふにゃふにゃの赤ちゃんだ。 「女の子ですか?」 「は、はい」 「名前は?」 「み、美羽(みう)です」  僕と石田さんの短いやり取りを聞き流しながら、徳網さんは美羽ちゃんを抱き上げた。ベビーベッドもなく小さな布団に寝かされていた美羽ちゃんは、石田さんの部屋と同様に異臭がしていた。オムツを替えてもらっていないらしい。よく見るとベビー服もシミだらけだ。 「なあ石田」 「は、はい」  これまでとは少し違うトーンの徳網さんの声に、石田さんだけでなく部屋の空気が変わった気がした。 「お前、こんな状況で今まで助けも呼ばずに生活してたのかよ」 「そ、それは……」  徳網さんが怒っている。そう感じた。 「赤ん坊が泣き止まねぇから仕事ができねぇ? 順番が違うだろ。てめぇがきちんと世話しねぇから泣き止まねぇんだろうが」  それにも同意。こんなに蒸し暑くて不衛生な部屋では、気持ちが悪くて泣くはずだ。赤ちゃんがいる部屋なのに煙草の吸い殻が捨ててあるのも気になる。何より疑問なのは、 「オムツはどこにあるんですか? 替えてあげないと、これじゃ不衛生です」  徳網さんの腕に抱かれた美羽ちゃんのお尻を触ると、もうだいぶ前から交換してもらっていないオムツがずっしりと重くなっている。  僕の質問に、石田さんは言いにくそうに 「それが、ゆうべから切らしてて……」 「だったらさっさと買ってこいよ」  すると、苛立つ徳網さんの逆鱗に、とうとう触れる言葉が石田さんから飛び出した。 「そそそ、それが、ここ、今月はもう、金がねぇんです」 「はあ!?」  堪忍袋の緒が切れる、とはこのことだろう。短気な徳網さんにしてはよく耐えたほうだと思う。正直なところ、僕も呆れてものが言えなかった。 「それで赤ん坊そのまんま転がしてたのか!? 虐待じゃねぇか」 「い、いえ、給料が入ったら、かか、買いに行く予定だったんです」 「給料って、ほとんど働いてねぇだろうが」  なんだかもう、うんざりするほど疲れる人だ。再び腕の中で美羽ちゃんが泣き出したので、引導を渡すときがきたようだ。 「ほ、ほ、本当に申し訳ないです」 「それはもう聞き飽きた。てめぇはどうしたいんだ。もう働く気はねぇのかよ」 「い、いえ、滅相もない。い、今クビになったら女房の入院費も払えなくて、一家で路頭に迷うことになります」  はあ、と盛大なため息をついた徳網さんが、意を決したように言った。 「赤ん坊を、放っておくわけにいかねぇだろ」 「そ、それじゃあ……」 「お前はこれまで通り仕事に出ろ。赤ん坊は――美羽は、俺が見る」  何を言っているのだろう。徳網さんの発言の意味が、僕にはわからなかった。
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