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「何言ってるんスか」
僕よりも先に言葉にしたのはヒロくんだった。
「そのまんまの意味だ。美羽は俺が見る。石田が仕事と子どもの世話を両立できねぇ以上、ここに置いとくわけにいかねぇだろ」
「でも――」
「徳網さんの仕事はどうするんです」
今度は僕がヒロくんの言葉を遮った。かなり重要かつ、じゅうぶんな答えなど得られないはずの質問にも、徳網さんははっきりと答えた。
「俺の仕事は問題ない。昼間は事務所で面倒見る」
「そんなの上手くいくわけないですよ」
心配をストレートにぶつけるヒロくんの無遠慮な忠告にも、徳網さんは特に怒る様子もなく淡々と返す。
「上手くいかなくても、なんとかやるしかねぇだろ。このまま石田をタダで会社に置いておく余裕はねぇし。それに、」
ちらりと腕の中で短くしゃくりあげるように泣いている美羽ちゃんに視線を落とし、
「美羽をこのままにしちゃおけねぇ」
それが彼にとって一番の理由ではないだろうか。僕は思った。
同時にあらゆる不安が襲ってくる。
「本当に大丈夫ですか。病院か、施設を頼るという方法も――」
「石田が龍義会に関わってることが知られたら、美羽は親元から引き離されるかもしれねぇ」
「それは……」
その言葉には、そこにいる誰もが黙った。
実の母親から虐待を受けていた徳網さん、施設育ちで親の顔すら知らないヒロくん、ある日突然、家族との絆を引き裂かれた僕――
きっと三人ともが、それぞれに違うことを考えていたと思う。けれど、思いが行き着くところは一つだ。
美羽ちゃんを一人にしたくない。
僕と同様に、徳網さんもヒロくんもそう思っているだろう。石田さんがまた何か口ごもったとき、少し怒りのおさまった徳網さんが言った。
「俺んとこで保護してりゃ、美奈さんが退院したときすぐ迎えに来れんだろ」
「そそそ、そりゃもう、たた、助かりますけど」
「俺も、できること何でもします」
腹をくくった様子のヒロくんに僕も続いた。
「僕も、力になります」
ただ、僕の場合はヒロくんと違って部外者で、おまけにこちらも人手不足の職場を抱えている。どこまで介入できるかは未知数だ。
「じゃあな、石田。そういうことだから」
あわあわと言葉を探している石田さんを尻目に、徳網さんは美羽ちゃんを抱き上げて玄関へと進む。それに僕とヒロくんも続き、ゴミ溜めのアパートを後にした。
こうして、石田家の長女・美羽ちゃんは、母親が退院するまで徳網さんに預かられることとなった。
アパートを出ると夕方だった。貴重なデートの一日は思わぬ形で終わっていった。
「このまま事務所に帰りますか」
ヒロくんがドアを開けて待っていてくれる後部座席に乗り込むと、「そうだな」と言って徳網さんは目線を落とす。いつもならスーツのポケットから煙草を探す仕草をするが、今は美羽ちゃんで両手が塞がっている。
少し考えるように間をおいてから、ドラッグストアでオムツを買って帰ろうと言った。
不思議な光景だった。徳網さんと買い物に行くことはあるけれど、コンビニならまだしもドラッグストアで赤ちゃんのオムツやお尻拭きを持って歩く日がくるなんて。
ヒロくんは「自分が買ってきます」と言って、僕たちには車で待っているよう気遣ってくれたけれど、徳網さんは自分が世話をすることを買って出たのだからと言って譲らなかった。
僕も何度か美羽ちゃんを抱っこしようと手を差し出したけれど、アパートで美羽ちゃんを抱っこしたときから徳網さんのスーツは排泄物やよだれで汚れていて、僕も汚れてしまうからと、新しい紙オムツを買うまでは手出しさせてもらえなかった。
時々ふと心配になるものの、徳網さんと一緒に美羽ちゃんを守っている時間はなんだか新鮮で楽しい。
外は暗くなり始めているのに昼間のように明るいドラッグストアで、僕たちはあれやこれやとベビー用品を選んで回った。その後ろをヒロくんがさり気なく護衛するかたちでついてきてくれたのはなんだか申し訳なかったけれど。
薄暗くなった駐車場に出ると、泣き疲れた美羽ちゃんは徳網さんの腕の中でウトウトし始めた。
お店から車までの距離は少し離れていて、その数メートルの歩道を歩くことすらなんだかくすぐったい気分だ。まるで、徳網さんと本当の家族になれたようで。
「悪ぃな、センセイ。荷物重てぇだろ」
「ぜーんぜん。これくらいさせてください」
ふ、と綺麗な顔で微笑む徳網さんの後ろで、キラリと車のミラーが夕陽に反射するのが見えた。
「あ、危ないですよ」
咄嗟に空いているほうの手で徳網さんの体を引き寄せる。美羽ちゃんを抱いていたせいで、そのまま彼の額がトン、と僕の胸に当たった。
――うわ、なんだかこれって……。
堂々と駐車場で恋人を抱き締める体勢になってしまった。顔を上げると、数歩後ろでヒヤヒヤしながら見守っていたヒロくんも恥ずかしげに頬を赤らめている。けれど一番恥ずかしそうなのは徳網さんだった。
「怪我はないですか」
「ああ、ありがとな」
短いやり取りをする間も真っ赤になった顔を伏せて、その後も黙って駐車場を歩く彼が可愛い。
同時にほんの少し胸が痛い。それは、どんなに距離を縮めても本当の家族になれない現実と、これくらいしか彼のためにしてあげられない自身の非力さを思い知らされる痛み。
僕たちを乗せたセダンが走り出すと、リズム良く過ぎていく街灯の光に照らされた徳網さんの綺麗な顔に笑みが宿る。
ようやくいつもの二人になれた気がした。
「帰ったらさっそく風呂に入れて、着替えさせねぇとな。晩飯はその後だな」
僕もいっしょに美羽ちゃんをお風呂に入れて、夕飯を食べて帰ることにしてくれている。そんな当たり前じゃない日常がこんなに嬉しいなんて。
これからやってくる大変な日々を心配しながらも、僕はすぐそばにあるほんの小さな幸せを噛み締めていた。
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