心配事

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「ヒロくん、コーヒーごちそうさま。帰るね」 「お疲れ様です」  給湯室から顔だけ覗かせたヒロくんが、一度引っ込んでから再び見送りに出てきてくれる。  この出迎えと見送りにもだいぶ慣れた。慣れたけれど、できれば普通にしてほしい。  組長と仲の良いオトモダチということで、特別扱いされているのだろう。  事務所を出ようとすると、もう一人のが駐車場から歩いてくるのが見えた。  明るい色の短髪に、縁の薄いインテリ風の眼鏡。ヤクザにしては珍しいお洒落なスーツ。その襟元には徳網さんと同じ銀色のバッジが光っている。  龍義会と同じ紫雲会の傘下にある吾妻組の組長、吾妻恭平さんだ。  吾妻さんは僕を見るなり、子どものようにニカッと笑った。 「よう、センセイ。徳網に会いに来てたのか」 「はい。もう、失礼しますけど」 「今日が休みだったんだな。悪ぃな、お楽しみの邪魔しちまった」 「いえ。徳網さんはそれどころじゃないみたいですよ」  吾妻さんは、ヘラヘラしているように見えて洞察力に優れている。すぐに僕が抱えている心配事も見抜いたようで、 「なんだ、せっかく来たのにチューもしてねぇのかよ」 「へっ!?」  いつも不意打ちで恥ずかしくなることを言う。年甲斐もなくそういう会話に弱い僕を見て、悪戯が成功した子どものように笑った後で、ふと真面目な顔をした。 「あいつ、言い出したら聞かねぇとこあんだろ。俺も、石田のオッサンの赤ん坊を世話するなんて聞いたときには反対したんだけどな。親父に似て頑固だから」 「親父?」 「ああ、浅葱のことな。血の繋がりはねぇけど、親子盃交わした浅葱は、あいつにとって父親だから」  一瞬、徳網さんの本当のお父さんかと思った。  僕は徳網さんの実のお父さんも知らなければ、極道社会で父親とされる浅葱さんのこともよく知らない。 「センセイが心配してたって伝えとくわ」  じゃあ、と片手を上げて、吾妻さんは事務所に入っていった。一歩後ろに、美形でスタイル抜群の付き人を従えながら。  事務所の扉を開けると、龍義会の組員に出迎えられる吾妻さん。特別扱いでも、僕とはまた種類の違うなのだとなんとなく思う。  僕は徳網さんと特別仲の良い人間だと認識されているけれど、外部の人間。吾妻さんは血の繋がりこそないけれど「身内」だ。 ――家族かぁ。  随分長い間、意識したことのなかった言葉が頭の中を浮遊する。  血の繋がっている家族ならいるけれど、心はとっくにバラバラになっている。震災で生き残った妹が、今では結婚して幸せな家庭を築き、その家族と時々連絡をとるくらいだ。  僕にとって血縁はそれほど重要じゃない。ただ側にいて、いつでもどこでも繋がっていられる家族のような存在がいればいいなと思うことはある。それが徳網さんだったら――なんて大それたことも、心の中では何度も想像した。口にすれば徳網さんを苦しめる。だからこうして、気持ちが繋がっているだけでいいと自分に言い聞かせてきた。  心を共有できる人がいるだけでじゅうぶん幸せだ。  そこまで考えて、事務所から少し離れたところではたと足を止めた。  そう言えば、徳網さんが完全に寝てから事務所を出てきた。ヒロくんか誰かが起こしてくれればいいが、吾妻さんが人払いをしてこっそり近付いていったとしたら。  吾妻さんはゲイで、面食いで、何度も徳網さんを口説こうとしていたことは知っている。まさか今も、僕がいない間に――  そんな想像を巡らせていると、居ても立っても居られなくなった。  慌てて踵を返し、事務所の扉を開ける。すぐそこにヒロくんがいた。 「あれ、センセイ。忘れ物ですか」 「えっと……そうじゃないんだけど」  説明に困って口ごもったところで、通路の向こうにある事務室の中から吾妻さんの声がした。 「おーい、誰か来てくれ」  すぐに何かあったのだと察知する。ヒロくんや他の組員よりも先に、部屋の中に飛び込んだ。 「お、センセイ」  床に屈み、意外に落ち着いた様子の吾妻さん。しかしその腕にはぐったりした徳網さんが寄りかかっている。 「どうしたんですか!?」 「話してたら急に倒れちまってよ。この様子じゃ、今日はもう無理だな。日を改めるわ」  帰るのかと思いきや、そのまま徳網さんを横抱きに抱き上げる。胸がちくっと痛んだが、今はそれどころではない。吾妻さんに続いて、僕とヒロくんの三人で徳網さんを寝室に運んだ。  貧血、過労、高熱、脱水。詳しい検査をしていない現時点での、外科医の見立てはそんなところだ。  徳網さんをベッドに横たえ、その様子を確認してから、変わらぬ調子で吾妻さんは言う。 「とんだ場面に遭遇しちまったな。お医者さんがいてくれて助かったわ」 「これくらいの診断なら、医師じゃなくてもいいと思いますけど」  謙遜のふりをして皮肉を言う僕に、彼はガハハと笑いながら肩を叩いて出ていった。 「解熱剤、買ってきます」  気を遣ってか、部屋を出ようとするヒロくんを小声で引き留める。 「徳網さん、ちゃんと食べてる?」  ヒロくんは立ち止まり、言いにくそうに首を振った。 「あんまり。美羽が泣くと気になるみたいで、食事も中断したり抜いちゃったりで、ろくに食べてないです」 「やっぱり」  ヒロくんが出ていった寝室で、僕は徳網さんの寝顔を見つめていた。全身にじっとり汗をかいている。熱が高いのだろう。ヒロくんに、経口補水液も買ってきてもらえばよかった。体温計の場所は知らないし、そもそもそんなものがヤクザの事務所にあるのかどうかも分からない。  せめて汗を拭こうとタオルを取りに立ち上がった時、Tシャツの裾を引っ張られた。徳網さんだ。服を引っ張る手には力が込められている。 「夢見てるのかと思った。センセイがいる」 「ちょうど帰りかけたところで、倒れたって吾妻さんに呼ばれたんですよ」  青白い顔をしながらもはっきりと受け答えしてくれる徳網さんに安堵していると、大きく息を吐いた彼が天井を見上げてぽつりと言った。 「あいつ、変なことしなかっただろうな」 「僕が止めなかったら、キスされるところでしたよ」 「は?」  想像以上に狼狽するので「うそうそ」と顔の前で手を振って見せると、ムッとした顔をして、すぐその後に脱力した。 「タチの悪ぃ冗談言うなよ」 「すみません。ちょっと、吾妻さんに嫉妬してたから」  右手の甲で顔を覆っていた徳網さんが、ハッとしたようにこちらに視線を寄越す。 「嫉妬?」 「いえ、なんでも」  徳網さんの心配そうな顔。病人にそんな顔をさせてしまったと思うと胸が痛い。でも、おかげで少し気が晴れた。  仕方ないけれど、何もできない僕に比べて吾妻さんは僕ができないことをさらりとやってしまう。徳網さんにとっても、それが当たり前だから特に気にしている様子はない。僕はというと、気持ちのやり場が見つからない。僕だけが悔しくて、僕だけがやきもきしている。 「美羽は?」 「リビングのベビーベッドに寝かせてます。よく眠ってますよ」  そうやって、自分より人に構うところなんか本当に危なっかしくて放っておけない。 「今夜は、泊まってもいいですか」  驚きに満ちた目が僕を見る。 「だめですか」 「泊まるのは感心しねぇな。会いに来るだけでも心配だってのに」  僕を心配してくれる気持ちはわかる。けれど今は非常事態。僕には徳網さんが心配でならない。 「今日だけ特別ということで。第一、こんな体調で美羽ちゃんに何かあったら大変ですよ。今夜は僕が見てるんで、安心して休んでください」 「さすがにそうはいかねぇよ」  徳網さんは飛び起きるように上体を起こした。 「夜勤明けなんだろ。疲れてんのに無理させるわけにはいかねぇ。それに、美羽は俺が面倒見るって預かったんだ。無責任なことはできねぇよ」 「どっちが」  頑なな彼に心配が爆発してつい、苛立った口調になってしまった。 「美羽ちゃんは石田さんの子なんです。徳網さんがひとりで背負い込むことないんです。それにやっぱり他人の子なんだから、育児にも限界があると思うんです。そこのところ割り切らないと、母親代わりになれると思ってたらこの先もちませんよ」  これくらいはっきり言わないと伝わらないと思った。  徳網さんは、自分が思っている以上にボロボロになっている。そんな徳網さんを、僕もヒロくんも、そしてたぶん吾妻さんも、ものすごく心配しているんだってことを。  僕の言葉を聞いた徳網さんは、予想以上に堪えた様子だった。なんだかものすごく傷ついたように見えた。  それでもいい。これ以上ボロボロになる前に誰かが止めないと。それが僕の役目であると信じたい。 「わかった。センセイの言う通りにする」  どうしてだろう。彼を助けたくて出た言葉なのに、悲しい顔をさせている。  徳網さんはベッドの縁に腰掛けると、サイドテーブルの白い箱を手に取り煙草を出した。美羽ちゃんと過ごすようになってから、彼が煙草を手にするのを見たのは初めてだ。  慣れた手つきでそれを咥え、火をつける。  ふう、と一度だけ吸ったそれを、今度は僕の口元に差し出した。 「こんなに熱があるのに?」  その行為が何を意味しているのか、わかっているから念のために聞いた。  徳網さんはそれでも誘うつもりだろう。僕だって、美羽ちゃんを預かることになってからというもの、セックスどころか二人きりになる時間すらままならずに悶々としている。 「溜まってんだ。看病以外にもすることあんだろ」 「悪い人ですね」  そんなことを言いつつ、心の中でこっそり彼の性欲に感謝する。  愛しい人の綺麗な顔と妖艶な体がすぐ側にあるというのに、触れられない拷問に耐えてきたのは事実。その顔に、幾度となく欲望を浴びせる妄想をしてきた口が言うのだから、本当に悪いのは僕のほうかもしれない。  差し出された煙草を、咳き込まないよう気をつけながら軽く吸って煙を吐く。それがいつもの、僕の返事だった。
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