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下品な笑い声。虚しいマウント。真偽不明な知人のゴシップ。
居酒屋の個室で一人、耳の辺りで短く切り揃えた後ろ髪をわなわなと震わせ、両耳を両手で覆い隠す。二名分のお通しは遠慮がちにテーブルの隅に置かれたまま、鮮度が刻々と死んでいく。
「汚い、汚い、汚い……」
体の奥から膿を吐き出すようにブツブツと唱えながら、その人物は遅れて来るという相手を大人しく待った。
「お待たせ」
細い足を際立たせる上品なフレアスカートと、甘く蕩けるような声が、この世の全ての喧騒をかき消した。
「遅くなってごめんね。坂本さん」
ぶわ、と坂本は耳まで紅潮させて顔を上げた。
「いいんです!月島さんなら、いくらでも待てますから」
坂本は唾が飛びそうな勢いで胸中の空気を吐き出した。月島は目を細めて微笑み、メニューのタブレットを手にした。
「坂本さん、何飲む?」
「あっあっ気が利かなくてすみませんっ……注文は私が——」
「何、飲む?」
月島は微笑みを保持したまま、目の奥は冷たく坂本を見据えていた。坂本は視線にやられて、雨に濡れた子犬のように萎縮し「生で」とヘラヘラしながら答えた。
「私はシャンディガフにしよっと」
飲み物が先に届き、お互い乾杯もせず口に運んだ。続けて枝豆と、焼き鳥5種盛り合わせが運ばれてきた。ちびちびとビールを飲みながらも、坂本の目線は常に、月島の顔に向けられていた。
「ねえ、これ見て」
沈黙を破ったのは月島だった。坂本は、身を乗り出して眼前に差し出された月島のスマホの画面を覗いた。
俺が守るから
今すぐ会いたい
次は、いつ会ってくれる?
それらは、一週間ほど前に別の部署に配属された井上からのDMだった。
「うわあ、井上くん。完全に沼に落ちちゃってますね!」
「そうなの〜困っちゃうよね」
うふふ、と笑う月島の表情は可憐で無邪気な少女そのものだった。体が温まってきたのか、坂本はズルズルと鼻を啜りながら月島に合わせてヘラヘラと笑った。
「坂本さん、」
髪をそっと左耳に掛けて、月島は坂本の目を真っ直ぐに見た。
「あなたのおかげだよ。あなたが協力してくれたおかげで、井上くんが、私に落ちたの」
坂本は更に呼吸を荒げ、左腕を強く押さえ悶絶した。
「そんな、そんな!寛大な月島さんが、私のストーカー行為を許してくれたから、恩を返すのは当然です……!部屋に入れてもらえるなんて、寧ろご褒美というか。男装上手くいくか心配でしたけど、お役に立てたようで何よりです!」
「ほんとに、坂本さんも井上くんも、私のこと好きなんだから」
月島は、枝豆を口に運ぶとシャンディガフのグラスをうっとり眺めた。
「あれ、特に良かったよ。私の自宅ポストに気持ち悪い手紙入れたやつ。サプライズで仕掛けるなんて、やるじゃん」
「えっ」
一瞬、静寂が個室を包んだ。そして、鳥を絞めたような声が、辛うじて坂本の喉から出てきた。
「それ、私じゃないです」
月島は、笑顔を携えたまま固まった。沈黙に反して、周囲のどんちゃん騒ぎがボリュームアップする。
「え、誰、誰、誰。私だけの、私だけの特権なのに、なのに、勝手に……」
坂本はただ真っ直ぐテーブル上の肉の塊を見てギリギリと人差し指の爪を噛み始めた。
しばらくして、月島の硬直した体は自然解放されて、月島は身震いした。
「やだあ、誰ー?困るな〜」
瞳の奥は恍惚とし、愉悦たっぷりの微笑みで、月島は焼き鳥盛り合わせの中から心臓を手に取った。
「わたしこれ好きなんだよね。……んー!美味しい!」
妖艶な赤の間で高級車のように輝く白い歯が、ギリギリと心臓を刻み、擦り潰す。口内に溢れた肉塊と肉汁は、シャンディガフと共に胃の中へと流されていった。
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