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「……これが、その人?」
くすんだ灰色のフロアマットを蹴った反動で、坂本がオフィスチェアーと共に差し出されたスマホの画面に急速接近した。画面に映る、輪郭が伸び疾走感漂う一枚の写真の右奥の人影らしきシルエットに、スマホの持ち主である月島は落ち着いたパープルの爪先をコツコツと当てた。
「うん。これ誰なのか予想つく?」
辛うじて、後頭部の色が黒、そして黒のスーツを着ていることは分かる。だが、月島たちのいるフロアだけを俯瞰しても、似たような背格好の人間だらけだった。
「分からないけど、多分男の人だよね。……あー、強いて言うなら、背格好井上くんに似てるかも」
無糖の缶コーヒーを片手に月島たちの後ろを通過した井上が、名前に反応して月島の真隣までバックした。
「俺の話?……お前ら2人でいるの、珍しいな?」
「ねえ、この写真の人、井上くんだったりしない?」
坂本は月島の手からスマホを取り上げると、井上の眼前に突き出した。井上は一瞬眉間に皺を寄せたかと思えば、「ふ」と嫌味のない苦笑いをこぼした。
「何この写真、ブレすぎ」
「あー、これね——」
月島は恥ずかしそうに目を瞬かせ、柔らかく艶のある髪を左耳に掛けた。
「昨日、同期飲みだったじゃない?それで、私飲みすぎて解散後の記憶なくって……これ私の部屋なんだけど、多分私が酔った状態で撮ったんだろうね。ただ、写ってる男の人に心当たりがないんだよね」
「え?あの時、月島相当酔ってたの?……気づかなくてごめん。送ったのに」
「ううんううん、自業自得だし!……井上くんじゃないってことだよね」
「俺は真っ直ぐ帰ったな」
井上はわざとらしく神妙な表情を作って見せ、コーヒーを一口飲んだ。大きな喉仏が上下に揺れるのを、黒くて大きな瞳で見届けた後、月島はまた落ちてきた髪を左耳に掛けた。
「困ったな、送り届けてくれたのだろうし、お礼言いたいのに」
「いやいや、何の疑いもなく親切な人って決めつけていいわけ?覚えてないなら、尚更」
人の声の代わりに、キーボードを打つ音があちこちで響き始めた。以前警戒心なく困り顔をするばかりの月島に見つめられ、井上は小さいため息と共に首の後ろを掻いた。
「でも、お財布も無事だし……」
「月島さん綺麗だから、ストーカーとかも十分あり得るか」
坂本もむくんだ脚をパタパタさせながら井上の意見に同意した。
13時を告げるチャイムがフロアに緊張感をもたらした。
「俺今日訪問あるから、行くわ。とにかく月島、少しは警戒しておいた方がいいんじゃないか?何事もなけりゃ、それでいいし」
早口で議論のまとめを残し、井上はその場を後にした。「私も戻ろ」と坂本もオフィスチェアごとデスクに向かおうとするが、月島の右腕に阻止された。
「スマホ」
女神様のような端正な笑顔だった。坂本は耳まで赤くして、持ったままにしていたスマホを両手で月島の前に献上した。
「ご、ごめん。忘れて持っていくところだった」
たははと自虐っぽく笑って、坂本も仕事に戻った。
フロアは依然として真面目腐った空気で満たされていた。月島は少しの間写真に視線を落とし、画面を下にしてスマホをデスクの端にそっと置いた。
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