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「ごめんね、わざわざ……」
「気にせんでいいよ。定期券内だし。それに、月島が一番不安だろうから」
井上と月島は、月島宅の最寄駅で一緒に降りた。
この日の昼休憩中、明らかに顔色が悪い月島が「二人で話したい」と井上に相談してきた。空いていた会議室に入り、月島が井上に話した内容は、「最近、誰かにつけられている気がする」という甚だ深刻なものだった。
「やっぱり井上くんが言ってた通り、写真の男、ストーカーだったのかもしれない」
「ストーカーなら、警察に相談した方がいいんじゃ……」
月島は瞳を潤ませふるふると静かに首を横に振った。
「証拠がないし、それに顔も分からないから、取り合ってくれるのか……相談したのがもしバレたら、何かされるかもしれないし」
「心当たりはないの?」
「……マンションの隣に住んでる人か、コンビニバイトの人……かも。でも、分かんない」
月島の声は次第に小さく、か細くなっていった。井上は、今にも泣き出しそうな月島の肩に手を乗せて、
「俺が、暫く家まで送ろうか?」
と提案した。
基本定時で上がる月島は、井上の残業が終わるまでビルの一階にあるカフェで待った。井上は20時過ぎに退勤し、天気も曇天だったせいで外はすっかり幽暗に閉ざされていた。
最寄駅周辺は人通りも多く、街灯である程度明るく照らされていたが、月島のマンションに近づくにつれ音も光も徐々にフェードアウトし、長い一本道には月島と井上の姿しかなくなった。
井上は常に気を張り巡らせていた。時折背後を振り返ったが、月島のマンションに辿り着くまで、ストーカーらしき人物は遂に現れなかった。
「今日は、現れなかったみたいだね」
「井上くんが一緒に帰ってくれたからかな。本当に、ありがとう」
深々と頭を下げた月島に、井上は両手をブンブン振って「いいっていいって」と大袈裟に謙遜した。
「じゃあ、また明日」
エントランス前で手を振る月島の絹のような髪が風に揺れ、井上は暫く、手を胸の前に上げたまま固まっていた。硬直が解けた井上は即座に踵を返し、今来た道を戻ろうとした。
「……きゃっ!」
背後で月島の小さな悲鳴と、バサバサと書類が落ちた時のような音が響いた。
「大丈夫か?!」
井上はすぐに月島の元に駆けつけ、呆然と立ち尽くす月島の視線の先を追い、次の瞬間再び全身を硬直させた。
地面に散らばった、大量の白い紙。
百枚近くはあるだろうか。
それら全てに、一面に赤い文字で「会いたい」と書き殴られていた。
「……狂気的だな」
井上は紙を一枚ずつ集めながら、静かな声で呟いた。月島は腰が抜けてしまったのか、ポストの前でへたり込んでしまった。
「ポスト開けたら、これが流れ落ちてきて……どうしよう、初めてだよ、こんなこと」
月島の大きな瞳が更に見開かれ、大粒の涙が次々とアスファルトに飲み込まれていった。井上は、スーツが濡れることも厭わず月島の頭を胸に抱き寄せ、冷たい背中をゆっくりとさすった。
「俺がついてるから」
月島の髪が夜風で揺れる度、花のような優しい香りが井上の鼻先を掠めた。すん、と荒めの鼻呼吸をして、井上は更に強く月島を抱きしめた。
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