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 もう仲直りしてもいいかな?そんなことを思い始めていると、玄関の方から物音がした。黒崎が帰宅したようだ。いつもなら玄関へ迎えに行くところだけれど、自分の方から折れるのは癪に障るから、行かなかった。  ソファーで寝息を立てていた我が家の犬のアントワネットが起き上がり、黒崎のことを迎えに行った。すると、黒崎の声が聞こえてきた。 「……アン、ただいま。いい子にしていたか?夏樹はどこだ?」  キッチンへ足音が近づいて来た。それに気が付かないふりをして、夜食の準備を続けた。そして、そばのカウンターから名前を呼ぶ声がした。俺はほうれん草のお浸しを小鉢に盛りつけながら、振り向かずに返事をした。 「……夏樹。ただいま」 「おかえり」 「……まだ機嫌が悪いのか?」 「べつに?」 「……そうか」  黒崎がため息をついた。そして、ふわっと彼の匂いがした後、背後から両腕が回された。首筋に顔を埋められている。 「夏樹。そろそろ許してくれ」 「何のこと?」 「そう苛めるな。豆腐のことではすまなかった。お前が選ぶものが不味いわけじゃない」 「ふん。いっぱい文句を言ったくせに」 「悪かった……」  今回の喧嘩の内容は、豆腐の値段だった。黒崎が選んだものは、1パック434円。我が家が普段買っているのは、98円のものだ。十分に美味しい。それでも黒崎は譲らなくて、スーパーの中で言い合いになった。 「……もう2日も、まともに口をきいてもらえていない。どうすれば許してもらえるんだ?」 「話しているじゃん」 「今だけだろう。出勤する時は無視をされた」 「見送ったよ?キスはしなかったけど」 「何でも我儘を聞いてやる。こっちを向いてくれ」 「ふーん、何でも?だったら、とっておきの6文字言葉を言ってよ」  それは『あいしている』というものだ。滅多に言ってもらえないから、こういう時を利用したい。 「黒崎さーん。言うしかないよ?」 「……言わない」 「ええー?」 「行動に出したいから、別の我儘にしろ」 「ふうん……」  不覚にも胸がキュンとした。その言葉のとおり、行動に出している人だ。そういう人だから好きになったし、今も一緒にいる。  だんだん心の雪解けが始まった。そんな俺のことに気づいたようだ。背後から頬へキスをされた。 「……色が白いから豆腐に見える」 「頬っぺたに噛みつくなよっ」 「カウンターの上を見てみろ」 「だったら離してよ」 「はいはい」  黒崎の唇と手が離れたから、振り向いてカウンターの上を見た。そこには、洋菓子店のロゴマークが入った箱が置かれていた。先月、買ってきてもらって美味しかった店のものだ。 「わざわざ買ってきてくれたんだ?会社から遠いだろ?」 「今夜の飲み会の店が近くだった。持ち運びをするから生菓子は買っていない。開けてみろ」 「うんっ。ありがとう」  さっそく箱を開けると、動物のイラストのアイシングが見えた。マカロンの上に描かれたものだ。 「これ、毎日15セットのみの限定じゃん!予約でいっぱいだよ?」 「そうだったのか?」  素知らぬふりをしているが、こっそり予約をしたのは分かっている。俺が美味しいといった物や気に入った物を覚えてくれている。さり気なくお土産にすることが多いし、休みの日に店に連れて行ってもらえている。 「……物に釣られたわけじゃないけど。もう降参したよ」 「そうか。それならお前の方からキスをしてくれ」 「いいよ」  黒崎へキスをすると、背中に腕が回されて抱き寄せられた。そして、耳元で熱い息が触れた後、囁くように名前を呼ばれた後、さらに腕の力が込められて逃げ出せなくなった。 「ベッドに連れて行きたい」 「夜食を食べてよ」 「こっちがいい」 「だったら枕を抱いて寝ることになるよ?」 「分かった。先に食べる。明日は休みだろう?」 「もう……っ」 「分かった、ここまでにしておく」 「スケベじじい!」 「やっとそのセリフが聞けた」  強引に抱き寄せられて、こめかみにキスをされた。これでもう許したことになる。黒崎の粘り勝ちだ。  テーブルへ夜食を運んでいる間、黒崎が豪快にスーツを脱いだ。それを拾い集めて、クリーニング行きのランドリーバスケットへ放り込んだ。世話のかかる人だ。  機嫌を取るのが上手な黒崎。うまく乗せられる俺。お互いのバランスが、公園のシーソーのような関係だ。俺は鼻歌を歌いながら、ダイニングテーブルに料理を並べた。
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