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2-1 黒崎の一日(黒崎視点)
11月26日、月曜日。午前5時半。
シャワーから出ると、キッチンの方から味噌汁の匂いがしてきた。汗を拭きながらキッチンへ入ると、エプロンを身に着けた夏樹が、朝食の支度をしていた。
「……夏樹、おはよう」
「……黒崎さん、おはよう」
背後から顔を寄せて頬にキスをした。もっと触れたい。唇にもキスをしようとすると、夏樹が身じろいだ。
「だめだよ、新聞を読んでいてよ」
「……少しだけだ」
「昨日だってイチャついただろー?」
「そういじめるな。こっちを向いてくれ」
「嫌だよ~~。スケベじじい」
「こっちを向いてくれ」
「もう、だめだってば。もう少しで出来るから……」
「……分かった」
ここで留めておくことにした。月曜日の今日は会議が4本入っており、出勤前に資料を読む必要があるからだ。
リビングのソファーへ座り、テレビをつけた。そして、電子新聞を読み始めると、経済欄には黒崎製菓の記事が載っていた。
「……『黒崎製菓、第二四半期決算発表後の事業展開、海外への投資から国内へ。……黒崎製菓、好調。主力であるシャルロットシリーズ等のチョコレート菓子が伸びる。レストラン事業展開、好調。……市場調査、マーケティング能力において……』」
良いニュースを見て安心するのは束の間だ。新しい波に乗り続けて維持する必要がある。ほんの些細な落ち込みが連鎖するからだ。今回の決算は予想外に好調だった。それには早瀬が率いるマーケティング推進部門の成果が大きい。早瀬の数字を読み解く能力は高い。今後も最前線でやってもらいたが、管理能力の高さにも期待されており、さらに上のポストへと考えている。異論は出ないはずだ。それでも難色をしめす人間はいる。その理由は、ライバル企業の創業者一族だからだというから、馬鹿馬鹿しくて呆れるしかない。
その企業は『千尋製菓』という。現在の代表取締役社長は、早瀬の祖父の弟だ。数年間のことだ。早瀬が取引先の企業への就職をせずに、黒崎ホールディングスを選んだ時には驚いた。その時の会話を思い出した。
(……どうして当社を選ぶ?)
(……早瀬家の名前が通用しない場所でやりたいからだよ)
どうして実家を避けるのか。父親とは仲が良かったはずだ。早瀬の両親は実の親ではない。実母が未婚で出産して、彼が4歳の時に亡くなった。その後、実母の姉夫婦が彼のことを養子にした。
養父の早瀬孝則専務取締役は婿養子であり、早瀬家と千尋製菓の両方で、発言力が弱いとされている。何かと早瀬のことを庇ってきたが、それでは補えない程の窮屈さを、早瀬が家に対して持っていたようだ。彼の話を聞くと、黒崎家よりも重苦しさがあると感じている。常に早瀬家の期待に応えようとした早瀬は、両親達に反抗したことがなかったそうだ。初めての反抗が、黒崎ホールディングスへの就職だった。それには、孝則氏の協力があった。
(千尋製菓のトップの交代があるだろう……。孝則さんも推されるはずだ。それなら、裕理も誘われるだろう……)
するとその時だ。夏樹から声をかけられた。朝食の支度が出来たようだ。
「……黒崎さーん?」
「……どうした?」
「ご飯ができたよって」
「ああ、すまない。すぐに行く」
「疲れているんじゃない?しじみの味噌汁を作ったからさ。飲んでよ」
酒の席が続くと、必ず用意してくれる味噌汁だ。なんて可愛い子なんだろう。自然と腕が伸びて、夏樹の体を抱き寄せた。
「おーい、冷めるよー?」
「今日も頑張るからな」
「そう?無理はしないでよ?どっか具合が悪いんじゃないの?」
「いや、大丈夫だ」
今週は普段より重い案件の決定と、取引先との会食が詰まっている。夏樹から用意してもらった食事があるからこそ、頑張れる。気恥ずかしくて本人には言っていない。
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