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俺はエアロバイクに跨り、今日はもう三十分ほど漕いでいた。始めから負荷を強めに掛けるのが、俺の中では最近はもっぱらのトレンドだった。脂肪が燃焼しているのか、全身から滴り落ちる汗で床には小さな水たまりができていた。アスリートなんかでは決してなかったが、数値としては体脂肪率十五パーセントを維持したいという明確な目標を定めていた。プライペートなジムのため、誰かが俺のことをストイックだとか言う者もいない。無論、そんなつもりもない。
ペダルを漕いでいる間は、ハンドルの中間に固定しているタブレットで動画サイトやニュースサイトなどを視聴していた。些細なことに関心のある俺は、自分が思う以上に雑念が多いのだろうか。以前に、有酸素運動はネガティブな思考に囚われないとも聞いていたんだがな。あいにく、俺には当てはまらないようだ。最近の社会情勢にも、注意を払っておきたい性分でもある。
そんな画面の中でも常に注意を払っているのが、妻が冷蔵庫を開けるごとに表示される通知だ。連絡不精というかスマートフォンすら持たないから心配で、いまは事情があって業者に設定してもらっていた。冷蔵庫を開けない時間が八時間続いた場合で家族に、十二時間で警備会社に通知される。幸いなことに、これまでアラートが鳴ったことはない。水分や食事は、ちゃんと摂ってくれているのだろう。
ここに入院して、半年。寝たきりで体を動かすことができない俺は、ヘッドマウントディスプレイを装着し、コンピュータの仮想現実の中で暮らしていた。三ヶ月後には俺の意識はクラウド上にアップロードされて、八十年以上乗りこなしてきたこの肉体とは別れを告げる。そんな俺に君は祝福するだろうか、それとも泣いてくれるだろうか。まぁ、たぶん祝福の涙だろうな。それが一番良い。でも、それをビデオ通話で子供たちや孫たちに俺が告げると、奴らはこの世のものとは思えない、喩えようのない凄い顔をしていた。半ば批判とも取れるような、辛辣なことも言われたりした。しかし、これからの生とも死とも言い切れない状況に、激しく困惑するのは当然だと思った。それなので彼らの心の整理のためにも、俺は君のと一緒に、質素ながらも生前葬を早々に済ませた。もしかしたら、奴らにはどんな説教よりも堪えたかも知れない。そんなこともあって、家族の刹那の感情だとか世間体だとか、そんな些細なことは俺たち夫婦にはもうどうでもいいことだった。
いずれ君も、その意識がはっきりしない肉体に別れを告げるだろう。そうしたら、俺らは再びバーチャルの世界で六十年前の新婚の頃の姿で再会するんだ。いつか君が強く希望したことだから、俺は怖くない。いつだったか、純白のウエディングドレスに憧れるとか言っていたよな。心の中では、いまでも若々しく活発なんだろう。それが君らしくて、素敵だと思うよ。俺としても、こんな女性が長年連れ添ってくれてたかと思うと、とても誇らしい気持ちになる。
あの当時は俺が金が無かったばっかりに、入籍だけで新婚旅行すらも行けなかった。本当に、すまないと思う。正直なところ洋式は俺の趣味ではないが、いまどきの結婚式というのを経験しておくのも悪くないな。新しいことを始めると、運気があがるらしいと誰かが動画で言っていたからな。それもあって、俺は俺のアバターをスリムにしておこうと思う。だから、こうして仮想空間でも日々トレーニングに明け暮れているという訳だ。そもそもデータなのに馬鹿らしいと思うかも知れないが、こっちの世界では存在することのモチベーションを保つのも大事なんだ。枷があると奮起するというのは、相変わらずだ。
こんなに汗だくになって必死になっている姿を見ると、むしろ俺のほうが楽しみにしているのかも知れないと君は笑うだろう。俺だって、いつまでもいつまでも末長く君と暮らしていたいんだ。だから、先に行って待ってるよ。
名前で呼び合った、あの頃に還ろう。
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