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「すみません! 旦那さん!」
突然、後ろから声がした。だが、自分が呼ばれたのだとは思わずにそのまま歩いていると看護師が正面を立ち塞ぐように後ろから飛び出してきた。看護師は息を切らしていて、なんだか焦っているようだった。その方はよく妻の担当をしてくれている看護師だった。なにか伝え忘れたことでもあるのだろうかと待っていると、息が整ったところでようやく話してくれた。
「こんなこと、他人の私がとやかくいうことではないとわかっています。ですが、見るに耐えられないんです」
なんの話か全くわからなかった。妻はこの人になにか相談でもしていたのだろうか。
「自殺未遂した奥さんのこと、もう嫌いになっちゃいましたか? 本当に離婚されるんですか」
そうか。世間一般的に見れば、僕は自殺未遂した妻に離婚を言い放つような冷たい人に見えるのだ。実際は妻から申し出たことでも、他人からそんな事情なんてみえはしない。
「そうですね。妻が望んでいることですので」
「奥さんはそんなこと望んでいません!」
「妻が言ったんです。離婚しよっかって。もう僕にできることもないので」
「違うんです!」
場違いな大声に思わずたじろぐ。なにをこんなに必死になっているのか。
「桃香さん、毎日泣いています。離婚したくない、離れたくない、まだ好きなのにって夜中になる度、ずっと泣いているんです。睡眠薬がないと眠れないぐらい思い詰めているんです。これは私の勝手予想なんですが、自分が車椅子生活になることで旦那さんに負担をかけたくなかったんじゃないですか。お願いです。どうか、もう一度、ちゃんと、話し合ってみてください。このままだと桃香さん、本当の意味で死んじゃいます」
死んじゃうという言葉の重さをわかっている看護師がそう言い放ったのだ。それを聞いた僕はいてもたってもいられなくなった。踵を返して、妻の病室まで戻る。ドアを開けた瞬間から呻き声のような泣き声が響いていた。そうだ、妻はこういう泣き方をする人なのだ。悲しみも、苦しみもすべて自分の中で消化しようと、必死に堪えながら泣くのだ。
僕は迷わずカーテンを開けた。妻はこちらを見向きもせずに呟いた。
「やっと、やっと終わったんです。これで私が愛した人は自由になれるんです」
「僕は桃香との日々を、一瞬だって不自由だと思ったことはない」
その声にハッとした妻は顔を上げた。久々に見たその顔は以前よりもクマが酷く、憔悴しきっていた。涙でグチャグチャになった顔に今は怒りを感じる。
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