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その晩。明朝飛び立つ仲間達を激励する細やかな宴が行われた。
戦局が悪化した状況下で、ぜいたくは敵とされていたが、命をかけて突撃に向かう特攻隊員達には、士気を上げるため、国から僅かながらの酒の提供がされていた。
露にぬれた涼しい夜気が、食堂の窓から流れ込んでくる。
お世辞にも豪華とは言えない、少ない材料で工夫を凝らした料理が長机に並び、食堂内は湯呑で酒を注ぎあい、肩を組んでは音程の外れた軍歌を声高らかに歌う、隊員達の熱気で蒸していた。
みな少しでも気を許すと、もろく崩れてしまいそうな何かを払拭しようとしている。心に余白を作らないよう、努めて笑い声を絶やさない。
勇気は湯呑の酒を飲み干すと、窓際でぼんやり外を眺めている佐藤を見つける。
白い肌着から盛り上がった上腕は黒く陽に焼け、首にかけた日の丸の手拭いが、夜風に寂しく揺れていた。
勇気は湯呑みをおいて立ち上がり、佐藤に声をかける。
「佐藤さん、今夜は月が見えますか?」
取り留めのない言葉に佐藤は、え?と一瞬だけ間の抜けた顔をするも、勇気の気遣いに気付くと、眉尻を下げ顔を綻ばせる。
佐藤は勇気よりも3つ年上の25歳。同じ海軍兵学校の先輩だ。
「そうだな。月が明るいせいか、一際あの白い花が綺麗に見える」
佐藤が体を斜に向けると、窓の向こうの暗闇に指を差す。
「あぁ、今満開なんですね」
「夏なのに、あそこだけ雪が降っているように見えないか?」
「だから、ここでは夏の雪とも言われるのかな。不思議ですよね。通常なら5月に花が咲くんですけど、私の故郷にもあるんですよ。東京の調布なのですが」
「そうか、貴様は東京か。ずいぶん、故郷を離れて来たんだな」
勇気の実家近くの寺の境内にも、これと同じものが自生している。子供の頃あの木の下で、よく幼馴染みと遊んだものだ。
食堂と兵舎の間に、一本だけ真っ直ぐに佇むヒトツバダゴの木。
限られた場所にしか自生しない珍しい樹木で、ここらでは九州の方言にちなんで「ナンジャモンジャの木」とも親しまれている。
兵舎の敷地にあるこの木には、突撃のあと彼らの魂が迷わずこの木の下に戻り、互いの勇姿を称え合いながら旅立っていけるようにと、祈りが込められている。
暗闇に月明かりが差し、白く浮かび上がって満開の花がこんもりと咲き乱れている。
時おり、淡い夜風に揺れると細長い花弁が宙を舞い、クルクルと旋回しては地面に舞い降りる。
「満開になったと思ったら、すぐに散ってしまうんですよね」
散ってしまう。おもわず口走ってしまった自分をすぐに後悔した。まるで明日のわが身を連想させる言葉にしか聞こえない。重い沈黙が落ちた。
しばらくして遠い目をして、佐藤が静かに口を開いた。
「あの木の下に戻れば、会いたい人に会えるのだろうか」
「え?」
「俺は、大事な人を故郷において来てしまった。もうずっと会っていない」
佐藤には、ユキという許嫁がいる。
彼の実家は長崎で海苔の養殖加工をしていて、ユキの実家は海苔問屋を営んでいる。親の都合で決められた縁談に、佐藤は気乗りしなかったが美しく清廉なユキの人柄に、どんどん惹かれていった。
「ずっと待っていると言うんだ。俺はもう、戻る事はないのに」
「待っている?」
「もう会えない、これで最後だと手紙に書いたのに。ずっと待っている。俺がいつか戻ったら、あの白い花を一緒に見に行きたいと返事が来た。未練を打ち消すつもりだったのだが」
ヒラヒラと舞い散る雪の花を見つめる佐藤。
彼は、いつも冷静沈着に訓練用滑空機を操る。今まで一度も見たことがなかったその憂う表情に、勇気は胸が詰まった。
「すいません。余計なことを思い出させてしまいましたね」
「いや、いいんだ。俺は彼女とこの国を守ると決めたから、後悔はしていない。とはいう貴様は、誰か大事な人はいないのか?」
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