ナンジャモンジャの木の下で

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 大事な人。  勇気の眼裏にすぐに愛しい面影が浮かんだ。大好きななっちゃん。  「なつきという、幼馴染がいます」  勇気は、その言葉の響きに懐かしさが込み上げる。記憶の一つ一つを辿るように話し始めた。  彼は小学校の教員である両親に、大層厳しく育てられたのだが、7つ上がりでとりわけ体が小さかった彼は、ひ弱な泣き虫で、いつも小学校の同級生から揶揄われていた。  そんな勇気を、幼馴染のなっちゃんはいつも庇い、泣きべそをかく彼の手を引いては、いつも寺の境内に佇むナンジャモンジャの木の下に連れ立った。  勇気が泣き止むまでなっちゃんは、じっと待っていてくれた。微笑むと、彼女は何故か左目だけがキュッと閉じてしまう。  それがほんとうに愛らしくて、勇気はいつもその笑顔に癒やされた。  大きくなったら、今度は自分がなっちゃんを守るんだ。勇気の細やかな目標は、大人になった今もしっかりと胸の中にある。  「そうか。いい子じゃないか。彼女は達者でやっているのか?」  「え? あぁ彼女は」  「よぉ〜お前さん達ぃ。なぁにいつまで、しみったれた顔してんだ」  勇気の話を遮って、稲辺が大きな体躯をゆらゆらさせて赤ら顔で彼らの間に割り込み、両腕でガバリと肩を抱き寄せる。  「稲辺、ずいぶん酔ってるな」  佐藤が怪訝そうに、顎を引く。  稲辺の階級は佐藤と勇気より下だが、歳は佐藤よりも幾つか上で、ラバウルの航空部隊にいたこともあり、数々の空中戦をくぐり抜けた経験者だ。  「おう、最後の晩餐だからな。何よ、お前さん達、故郷においた女に会いたくなったか? んなら生きて戻るか? 戻れるわけねぇよなぁ〜燃料は片道分しか積んでないんだからな」  「稲辺さん、明日に差し支えます。もう飲むのを控えた方が」  「るせーな! へっぽこ特攻兵小岩井! お前さんは何度手解きしてやっても、まともに滑走機を飛ばせなかったじゃねーかよ。んなんで、的を得た突撃ができると思ってんのか?」  「す、すいません・・でも本番は必ず」  「これだから、兵学校上がりのボンボンは使えねぇ」  しどろもどろの勇気に、無理だと稲辺が呆れた顔の前で手を振ると、また佐藤の顔を覗き込む。  「なぁ佐藤。まだ女に未練が残ってるんだろ?」  「稲辺、やめろ」  佐藤が語気を強める。  「それならとっとと、その女と一発やっときゃ・」  「・・っ!」  稲辺の姿が突然消えると、ドンッと食堂中に重い激突音が響いた。  咄嗟に勇気が目をつむり瞼を開いた時には、佐藤が馬乗りになって稲辺の胸ぐらを掴んでいた。  「貴様! 見送ってくれる仲間の前で、みっともないと思わないのか!」  佐藤の怒号が大きく響き渡る。  彼は眉尻を釣り上げ、激昂に揺れる目で稲辺を睨みつける。  食堂内は不穏な空気に包まれ、隊の仲間たちは呑むのをやめて黙って2人を見ていた。  勇気は居たたまれなくなり、佐藤の肩を両手で抑えた。  「やめましょう。佐藤さん、稲辺さん」  「あ~ぁ、お前さん達は良いよな。守りたい相手が、ちゃんと生きてるんだから」  稲辺は天井に向かって投げやりな口調を放つと、肩を震わせ始める。  佐藤が我に返り手許を緩めると、稲辺は唇をぐっと噛みしめ片腕で顔を覆った。  「アヤが死んだってさ。さっき知らせが届いた。負傷兵の看護中に豪の中で・・」  アヤは稲辺のたった一人の妹だった。両親を早くに亡くした彼らは、東京から沖縄に住む父方の叔父夫婦のもとで育てられた。  叔父は海軍航空隊基地で教官をしていたので、稲辺は必然的にその道へと導かれた。  稲辺は妹思いの兄だった。こんな業苦のような時代を早く終わらせて、妹を幸せにしてやりたい。そんな必死な想いで彼は戦地に赴いた。   けれどもアヤは特攻隊に志願した兄の背中を追って、自分も兄の役に立ちたいと戦地に赴いて看護活動をする「ひめゆり学徒隊」に自ら志願したのだった。  「お前は絶対に死ぬな。敵が来たら、ぜんぶ放り投げて逃げて来いって言ったのに」    彼は赤く潤んだ目で、窓の向こうで舞い散るナンジャモンジャの白い花を見つめる。  「もう俺には何もない。あの花みたいに散っていくだけだ」    ほとんど最後の声は消え入るように、稲辺は声を殺して泣き出した。  「稲辺、すまん。気付いてやれなくて」    佐藤は体勢を戻すと稲辺の傍らに座り、じっと見守る。  勇気はかけてやれる言葉が何も思いつかず、ただ俯くしかなかった。  ひらり、ひらり、やわらかい風に踊る雪のような白い花弁。風向きが変わったのか、食堂の窓枠を超えて彼らのもとへ流れてくる。  そっと寄り添うように、彼らの肩に、胸に、手のひらに。  儚く揺れるその命の灯火に。
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