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勇気は重い瞼を開ける。
もうずいぶん長い間、眠リこけていたような気分だった。
けれども、眼前に広がる景色の中に自分が立っていることに気付くと、意識が一気に覚醒していく。
どこまでも澄んだ青空。ふっくら高く広がって虹色に染まる雲。その下にある青く澄んだ湖の水鏡には、空の情景が色鮮やかに映し出され、その彩度は意思を持っているかの如く、力強く胸に迫ってくる。
目に映るもの全てが、まるで呼吸しているかのような。こんな生き生きとした場所は、今まで見たことがない。
「いったいここは・・・」
勇気は一歩づつ踏み出してみる。やわらかい土を踏む感触。瑞々しい若葉のにおい。
どこからともなく、なんとも言えない優しい風が体を撫でては通り過ぎていき、ハッと我に返る。
いや、待て。俺は何をしていた?
確か、爆発した敵艦の砲弾の破片が胸に貫通して、肺が破裂して呼吸ができなくなったはず。それなのに痛むどころか風が心地良く、体がまるで軽い。
恐る恐る手で胸元を探り、勇気は愕然とする。
嘘だろ?被弾した分厚い特服と救命胴衣が、ズタズタに裂けて大きく開いているというのに、胸の傷が跡形もなく消えている。
そこでようやく、自分の体が無傷の状態であることに気付く。そんな事、あるわけがない。信じられない。眠っていた記憶も、どんどん戻っていく。
俺はあの後すぐ佐藤さんを追い、敵艦に突撃して機体ごと木っ端微塵になったはずだ。
まったく現実的でない状況なのに、何故か冷静に俯瞰できているのが不思議だった。
俺は明晰夢でも見ているのか?
だとしたら、佐藤さんは?稲辺さんは?
不意に風向きが変わる。今度は追い風になり背中を強く押され、まるで勇気の疑問を掻き消すように、彼が視線を向ける先へ真っ直ぐに拭き抜けていく。
風の道しるべを辿ると、青い湖の湖面にさっきまでなかった一本の大きな木が佇んでいる。
白いフワフワの綿雪のような花が垂れ咲き、ユラユラと静かに揺れていた。
「あの木は確か・・」
湖面から真っ直ぐに伸びた、ナンジャモンジャの木。風にやわらかくそよぐ白い花。
まるで穏やかに微笑んでいるようだった。今にも語りかけくるような気さえする。
途端に白いフワフワの花が、空へと一斉に風に舞い上がる。
その時、勇気は全てを悟った。
──俺はあの時・・死んだんだ。
細長い花弁がくるくると踊っては、やわらかく風の軌道を描き、あてもなく空に揺蕩う。
それはまるで、走馬灯のように回りだす。
編隊飛行で、佐藤と稲辺と大空を駆けた日。
稲辺に怒鳴られ、佐藤に励まされた日。
基地の飛行場で彼らと始めて出会った日。
あの木の下で、泣きべそをかいた勇気を見つめるなっちゃんのやさしい笑顔。
冷たくなったなっちゃんの手を握り、泣きながら誓った日。
記憶がどんどん巻き戻っていく。ゆらりと目の前の景色が揺らいだ。瞼の縁から不思議と熱くもなく温くもない、透明の雫が頬を伝う。
どうしようもなく懐かしくて、ただ嬉しくて。
安堵の波が、体の内側から押し寄せてくる。
会いたい、会いたい、会いたい。
稲辺さんに、佐藤さんに、共に死んでいった仲間たちに、そして・・
気付くと勇気は湖面の上を駆けていた。足元で水の波紋が弾けて広がっていく。
──ナンジャモンジャの木の下で、また会おう
風に流れていく白い花弁が導く先には、安らかな微笑みを浮かべ佐藤と稲辺、先立った仲間たちが勇気を待っていた。
彼らは愛する人と共にいる。
そして、その向こう側に愛しい人が、微笑んで手を振っているのが見えた。
左目をキュッとつむった懐かしい笑顔。
勇気は両腕をひろげて、その人の名を呼んだ。
おわり
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