1.憧れとお節介

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 筍の煮物のほかは、(あじ)の刺身、牛肉のしぐれ煮、白米のご飯にニンジンの浅漬け、青菜の味噌汁が並ぶ。 「あら、今日はみんなの好きなものが勢ぞろいね」  母が微笑んだ。  祖母は刺身、母は野菜、父は牛肉が好物だ。  灯は早速シャキシャキと歯触りのよい筍に箸をつける。  母と祖母に、父が今日の紫倉家での様子を尋ね、父は灯の顛末を聞いて大笑いした。 「まったく、しょうがないお嬢さんだ。行った先が紫倉家でよかったよ」 「新しい足袋がきつかったのよ」  灯は言い返す。 「そんなことはないでしょう。いつもの幸田屋さんで頼んだでしょ」  母が白米を載せた箸を止めて、口をすぼめた。 「おや、今日の醤油はなんだい? いつもより、何だか甘いね」  刺身を口に入れた祖母が、醤油用の小皿を見下ろす。 「醤油が甘い?」  父が訝し気に箸を醤油に浸す。真似て母と灯もちょんちょんと醤油を箸につけ舐めてみる。 「豊作さんが間違えたのかしら」  母は首を右へ左へ傾げてみせた。 「魚につけるとどうなんだ」  父は、鯵を醤油に浸して口に運ぶ。 「悪くないんですよ、これが」  ふた切れ目をすでに口に入れた祖母が、いつもは固く引き結ばれた唇を緩め、口角をあげた。 「美味いな。この味、どこかで……」 「うん、美味しい。ちょっと待って、今思い出せそう」  灯も鯵を口に運んだ。しっとりと脂ののった鯵の身の甘さを、甘い醤油が引き立てる。  この旨味の奥に広がる甘みが、委縮していた心をすうっと軽くしてくれた記憶がある。 「この味、薩摩の方の御屋敷で出たお料理じゃないですか」 「ああ、大岩家だ」  大岩家は英米との繊維貿易で利益をあげており、男爵の爵位もある家だ。  豪快な大岩男爵は、取引先の会社の社長と家族を呼んで、自慢の洋風庭園で宴席を設け、薩摩料理を料理人に作らせて振る舞った。  社交的な人々が集まる楽しい雰囲気だったが、あまりに庭が広いのと同じ年頃の子供がいなかったため、灯は少し緊張したのを覚えている。  洋風庭園の薔薇を愛でながら頂いた魚料理につけたのが、この醤油と同じ甘い醤油だった。
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